連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第38話

 そして次の年の一九六一年には隣接する六五アルケールの土地を一五〇〇コントスで買い足して、全部で十三,五アルケール(約三十三ヘクタール)となり、現在に到っている。農具も独立三作目にフォードのガソリントラクターの中古品、アラード、グラーデなどの付属道具・カレッタなどの運搬道具、消毒ボンバ(ポンプ)も買い足し、一応の体制は整った。ブーロ(驢馬)も二頭に増やした。
 バタタは二作続けると嫌地現象が起きるので三作目にはフェイジョン(短いいんげん豆)やとうもろこしを裏作として植えた。又、作付面積が大きくなればそのほとんどはその近くを借地することになり、バタタを二作、その後とうもろこしを二作収穫したら地主に返す契約であった。地主としても大山の森としてそのままにしておけば何の利益も生まれないけど、私が木の根を起こして開墾し、二年も待てば肥料の残った開かれた畑を返してもらえるので、どの地主達も喜んで土地を貸してくれた。その様なことで私達の住んでいる周り数キロメートルの土地は、かなり広い範囲に青々とした畑が拡がるようになった。
 私達はバタタの粗悪品がかなり出るので、いつも十数頭の豚を飼っていた。そして年間四~五頭は自家消費に当て残りはサンロッケの肉屋に売った。

    次女・恵美の誕生と初めての新車購入

 一九六三年は仕事も軌道に乗り、気持ちも大分落ち着いてきた。でも、バタタ作りにはいつもベト病やリンモン病、それに根ぐされ病や害虫も、アブラムシはまだ易しい方で、アカロがついたらなかなか死なない。ロジアトックスやフォリドールなどどんどんと強い農薬をかける様になる。そう言うことで、最初にバタタ畑で遊んでいた小さな悟が中毒にかかり、病院に運び大騒動したことがあった。そのすぐ後、私自身がフォリドールにやられ、吐いて吐いて胃液まで出し尽くし、病院に運ばれたことがあった。その後は気を付けてマスクなどしてそんな大事件は起きていない。
 又、その頃、私達はイリネウから借りている土地の周りも借地の場所が少くなったこと。もうそろそろ自分達の所有地への移転を考えていたので少しづつその準備も進めていた。
 一九六三年十月十九日、次女、恵美が生まれた。この頃はもう周りがそうであったように病院での出産をする人が増えていた。恵美の場合も前二人の赤ん坊が逆子だったので、病院の方が安全だと言うことで、森田さんの車でCAC(コチア組合)の病院に連れて行ってもらった。この時は森田のママイにお世話になった。私は付き添う必要はなかった。

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