連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第17話

 話を聞くと頭の中で勝手なイメージをふくらませた。不安よりも希望の方が先行した。二週間位の期間中、日本中部の滋賀県以西から集まった、同じ目的を持った青年達と同じ釜の飯を喰い、心を通わせて友達も出来た。近代農業の道具、トラクターも初めて乗って運転した。畑の耕起もした。
 講習が終わり、家に帰るとすぐ旅たちの準備にかかった。七月であった。ブラジルからやって来た山下組合理事の話を参考に、ブラジルで生活する最低限の品々をトランクに詰めた。作業着、地下足袋など、ない金をはたいて買った。私はブラジルまでの旅に無銭旅行も出来まいと、畑一反歩を二万円で売って資金を作った。私が母と何年も耕してきた畑を売るのは本当に苦しい選択であったけど、それ以外に資金調達の方法がなく仕方のない事であった。畑を売った代金の一部を家計の方にも廻した。母が可哀想であった。
 ブラジルに向けて出発の日が八月四日と定まると、それに向けてスケジュールが組まれ、高校の友達が伊勢ヶ浜の食堂で壮行会を開いてくれた。暑い夏の日曜日であった。皆それぞれ激励の言葉と寄せ書きをプレゼントしてくれた。「おい、黒木、向こうに行ったら金髪の嫁さんを貰って、十年以内に帰って来いよ」とか「大金持ちになって俺たちを遊びに呼べよ」とか勝手なことを言って座を賑わしたものであった。私も「十年もしたら帰って来るよ」と応じたものであった。その時の記念写真は今でも私のアルバムに懐かしく残っている。
 出港前の二週間位は神戸の移住斡旋所での生活になるので、その前に、もう二度と見られないかもしれない東京の街を一度見ておきたいと思った。それも東京には品川で信代、弥栄香の二人の姉が生活していた関係で、そういう発想が浮かんだものだろう。早速、姉達と連絡を取り、神戸の移住斡旋所入所の、多分七月十五日過ぎだっただろうか。いよいよ故郷に別れる日がやって来た。貧乏で苦しい年月であったけど、私が生まれ、多感な少年期と青年にまで育んでくれたふるさと、母やはらから達、友人達、いつも目の前に開けていた景色、海や山や川、これが見納めかと思うと、ひとりでに目頭が熱くなるのであった。
 ふるさとの富高駅を出発の日、神戸の斡旋所では自分の食べる米は持参せねばならないことになっていて、母はその米を袋に入れて富高駅にやって来た。辛い別れだった。私よりも母の方がもっと辛かっただろう。私も涙が止まらなかった。

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