《記者コラム》敗者復活戦の機会が多い日本社会に=在日2世は多文化共生のモデルケース

「日本では盛んにグローバリゼーション、国際化、多文化共生という言葉が使われているが、実践しているのはごく僅かでは。30年前に南米の日系人が日本の地方都市で働き始めたとき、差別やいじめにつながったことは残念でならない。国際化といったときに日本人がまず思い浮かべるのは欧米人。本来なら、中南米からの日系人も多文化共生の格好の対称になるはず。外国人といえば欧米人ではなく、まず隣にいる日系人を隣人として迎えて欲しい」
 JICA主催のオンライン・セミナー「多文化共生・日本社会を考える」連続シリーズ(第6回)特別編「日本のアルキ方―国内日系人、デカセギからプロフェッショナリズムへ―」の締めくくりに、聖市在住の国外就労者情報援護センター(CIATE)理事長の二宮正人さんが、そうコメントしたのを聞きながら深く共感した。日本時間2月3日午前10時から開催され、約500人が参加した。
 二宮さんは長野県出身。1954年、5歳の時に両親に連れられてブラジルへ渡った。苦学をしながら国内の秀才がしのぎを削るサンパウロ州立総合大学(USP)の法学部を卒業。大統領を10人以上輩出する難関中の難関だ。当時、弁護士になるにはブラジル国籍が必須だったので帰化した。東京大学で博士課程を修了し、皇室や大統領などの通訳としても活躍してきた人物だ。
 その基調演説では、在日子弟の教育問題に焦点があてられた。笠戸丸移民から26年目の1934年にはUSPで学ぶ日系人がすでに数人いたが、「在日ブラジル人コミュニティにおいては2016年時点の調査で約300人が大学在学中だった。その10年ほど前から日系人の大学入学が言われており、卒業生も含めれば1千人近くいるのでは」と比較した。
 それを聞きながら、1990年の入管法改正から2世や3世に「定住者」資格が与えられ、自由な就労が始まったから、今年はデカセギ開始33周年であり、その中で日系人1千人が日本の大学を卒業している現状があるならば、実に感慨深いものがある。これは朗報だと嬉しくなった。
 実際、日系人初の司法試験合格者の名古屋大学法学部卒の照屋レナン・エイジ弁護士(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190323-71colonia.html)、東大法学部卒弁護士の四世・嘉悦レオナルド裕悟(かえつ・ゆうご)さん(https://www.nikkeyshimbun.jp/2020/201021-21colonia.html)など優秀な人材が続々と輩出されている。
 二宮さんによれば「日系人初の医師試験合格者・島田君」もいるという。ブラジル日本人移民史よりも早いペースで日本社会への浸透が始まっているかもしれない。

新素材開発の研究という夢かなえた安里さん

安里トレス・ルイス・アルベルトさん

 その意味で、JICAセミナーの中では安里トレス・ルイス・アルベルトさん(25歳)の発表も興味深かった。デカセギの両親から1996年に日本で生まれた「在日2世」世代だ。
 両親は1990年から日本就労し、安里さんは神奈川県大和市というブラジル人集住地で生まれ育った。「幼稚園に入園する際、まったく日本語ができなかった。心配した母は四つの日本語だけ教えてくれた。《みず》《おなかすいた》《いたい》《おしっこ》」と振り返り、「でも卒園時には両親より日本語が達者になっていた」と笑う。
 リーマンショック時に父が働いていた工場が閉鎖となり、生活資金がないため両親が帰国を決断した。製造業の工場が直撃を受け、デカセギ労働者が大量解雇された。
「ボクは日本での生活に慣れていたため、帰国することに猛反発した。将来の夢と日本での生活を諦めなくてはいけないショックが強く、将来どうすればいいか、毎晩、毎晩、悩みました」と当時の気持ちを吐露した。
 ところが航空券を買おうとした時、「工場が再稼働」と父に連絡があり、急きょ日本生活を続けることになったという劇的な一幕もあった。
 アイデンティティの部分で節目になったのは、「両親にしぶしぶ連れて行かれた海外移住史料館(在横浜)だった。そこで初めて先祖の歴史を知ることができ、とても衝撃的で感動した。それまでは自分の名前がカタカナであることに違和感を覚えていたが、それからは日系人であることを誇りに思い、友達に積極的に説明するようになった」と言う。
 両親は子どもの教育に理解があり、安里さんを塾に通わせて第一志望の横浜サイエンスフロンティア高校に進学させた。さらに希望していた東京農工大学工学部の有機材料化学科に⼊学、昨年同大学院を卒業した。
 安里さんは大学進学の際、ある日系人家族から「ありがとう」と言われ、「何に対してありがとうなんだろう」と首をかしげた。聞けば「在日日系人でも努力すれば、高校にも大学にも進学できる。今までなかった身近なモデルケースになってくれてありがとうと言われたことが分かった」と報告した。
 そこで安里さんは「知らないうちに在日日系人の後輩達の役に立っていた。自分の経験をみんなに伝えれば、もっと誰かの役に立てる」と思いつき、外国人生徒への教育ボランティアを始めた。「私たち在日2世世代は、これから増えるであろう在日外国人の子どもたちをサポートすることに関して、経験という強みを持っている」と頼もしいコメントをした。
 現在は日本国籍を取得。味の素ファインテクノ社に就職し、夢だった新素材開発の仕事に就いている。
 戦後に日系2世がブラジル社会で外交官や弁護士、政治家、大学教授などとして活躍する中で、ブラジル社会の差別や見えない壁がどんどん取り除かれていった。それと同様、在日日系2世世代が活躍すれば、日本社会にでも理解が増えていくことが如実に感じられる経験談だった。
 育ちつつある在日2世は、在日外国人と日本社会をつなぐ接着剤のような役割を果たす世代では―という期待が膨らむ講演内容だった。

日本でカメラマンになったマエダさん

ジュニオル・マエダさん

 最初に講演した日系ブラジル人のジュニオル・マエダさん(44歳)は、子ども時代は貧民街で生活し、8歳から働いていた。33年前にデカセギとして訪日。自動車部品工場や魚の解体工場で働き、途中から「カメラマンになる」という夢を抱くようになり、日本人同僚から応援されながらその夢を実現した。
「日本は先進国だから工場労働はボタンを押せばあとは機械がやってくれるというイメージで訪日したら、実際は3K労働だった。日本語ができないといつまでたっても3Kの仕事しかできないと気付き、日本語の勉強を懸命にやった」と30年前を振り返った。
 カメラマンになろうと思い立ち、浜松市の写真学校に3年間通った。「当時は家から駅までバスで40分、目的地の駅まで30分かかった。土曜の朝一に家をでて学校へ、帰りは終電がなくなるので、浜松で徹夜して日系人イベントで写真を撮り、朝一で学校に戻って仮眠をとって授業を受けた。夕方自宅に戻って3時間家事をやって、月曜から工場労働という生活を3年間続けた」
 日本人カメラマンが集まるイベントにも顔を出し、助言をもらって交流を深めた結果、2019年から静岡県浜松市の写真館の正社員となった。今年もしくは来年には写真集を出版すべく計画を進めていると言う。
 日本で努力を重ねた結果、工場労働から抜けだして自分の好きな仕事で生計が立てられるようになった一例だ。

二宮さん「四世以降にも定住者枠適用を」

二宮正人さん

 二宮さんは「定住者の枠を四世以降の日系人に適用してほしい」と要望。「数年前に四世受入れ制度ができたが、条件が厳しすぎて年間4千人の枠が埋まらず、現状では数百人程度が入国できたのみ。一般四世に対する条件をさらに緩和していただく方法を考慮して欲しい」と強く求めた。
 日本政府、自治体、JICAへの要望として次の4点も述べた。「日本では、人生の敗者復活戦の機会が非常に少ない。後から入った外国人が、途中からでもやり直しができる社会的な受入れ体制を整えて欲しい」とし次の要望をのべた。
《夜間中学、定時制高校を増やして、若い就労者が通える制度を整備して頂きたい》
《雇用主には、彼らが勤務後に通学できる方法を考慮して欲しい。日本の夜学は午後5時ぐらいに開始するので、フルタイム勤務では通学が難しい》
《高校生、大学生に対して学費免除を含む奨学金の制度を、もっと充実させてほしい》
《義務教育においては、訪日後、日が浅い生徒を単に進級させるだけでなく、加配教員などを増やして、実力をつけさせて欲しい》。外国人子弟が日本の学校に転入した際、学力と関係なく年齢にあわせた学年に編入される。そして学力がついたかどうかに関係なくトコロテン式に卒業させるとし、「このトコロテン式は辞めて欲しい」と問題視した。
 これに関して安里さんからも、「外国から日本というまったく違う教育環境に来たとき、子どもはまず言語の壁に阻まれる。できるだけ早く言葉の問題をなくせるような補助が大切。そんな支援をお願いしたい」と加配教員の必要性を述べた。
 最後にJICA中南米部の吉田憲(さとし)部長は、「外国人が住みやすい社会は、日本人にとっても住みやすい社会なのではないでしょうか」と問題提起した。二宮さんのいう「敗者復活戦の機会が多い社会」は、たしかに日本人にとっても住みやすい社会ではないか。

日系サポーター制度で南米の経験を日本に伝える

JICAの方針を説明する北岡理事長

 冒頭、JICAの北岡伸一理事長は、「今日(こんにち)の多文化共生について語るときに忘れてはならないのは、日本人の海外移住の歴史です。日本人の海外集団移住は、今から154年前の明治元年、1868年にハワイ・グアムへの移住から開始されました。その後、ペルーやブラジルなどの中南米諸国にも多くの日本人が移住しました」と振り返り、その子孫が1990年からデカセギとして本邦就労を始め、現在ではベトナムなど多様な人材が日本で働いている流れを説明。
 北岡理事長は「日本の中南米等への移住の経験、つまり、どのように現地に受け入れられ、どうやって現地社会の発展に貢献したか、という歴史が、現在、そしてこれからのグローバル化が求められる日本社会の参考になる」と考え、日本の民間企業、地方公共団体やNPO等との連携により共生社会の構築に向けた取組の推進を実施して来たという。
 その一環として2020年11月にはJICAが中心になって「責任ある外国人労働者受入れプラットフォーム(JP-MIRAI)」を設立したと説明(https://www.nikkeyshimbun.jp/2020/201120-21colonia.html)。
 さらに「日本人移住者が中南米で名声を得られたように、現代においても、未来の日本の多様性や新たな文化形成を担う可能性がある外国人材を受け入れ、日本自身が変わっていく契機にする必要があると思います」との先進的なヴィジョンを掲げた。
 最後に、若手の日系人が日本国内の外国人集住都市で地域の課題解決に参加する「日系サポーター」事業(https://www.jica.go.jp/mexico/office/activities/nikkei/ku57pq00003uz77j-att/supporter_2022_require.pdf)を紹介した。理事長は「こういった取り組みを通じて日系人を含む外国人材が日本社会で共生し、成長し、夢を持って暮らせるようなお手伝いをしたいと考えています」と強調した。
 この「日系サポーター」制度は大変興味深い制度だ。今まで南米の日系人は一方的に日本から恩恵を受けるだけだった。だがこの制度では、日本の派遣先という多文化共生の現場において、南米での多文化共生の実体験の感覚を日本の人に伝える「ウインウイン」の制度だからだ。
 南米の日系人で「日本語教師」「看護師」「幼稚園教諭や保育士」「小・中学校教諭」「ソーシャルワーカー」「多文化共生のNGO職員」などを目指す人や既に従事している人が対象となる。彼らが日本での研修を通して自らの専門性を磨く機会にすると同時に、研修先の日本の学校、地方自治体、企業、NGO等の団体において自らの専門技能を活かして、日系人集住都市が抱える課題をサポートするという。
 ただし、この事業は2020年度から実施されているが、パンデミックのために実際の派遣は休止中。とはいえ、日本語教師などが日本の日系人集住都市で課題解決に協力できる素晴らしい機会だ。JICAの取り組みに大いに賛同する。
 ぜひパンデミックが収束する機会をとらえて、若い日系人に応募して欲しいものだ。(深)

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