先に触れた様に、戦時中、農業界は好況であった。特に繭や薄荷は、最高時には十倍近くまで値上がりし、生産者は大儲けをした。生産者は殆どが邦人だった。
繭は生糸さらに絹糸に加工され、薄荷は精製され、米国に輸出されていた。
この二つは戦前、日本が主たる生産国であったが、開戦で輸出が止まったため、ブラジル産への需要が強まり、値が高騰したのである。
ところが、ここで、奇怪な現象が頻発する。
夜間、養蚕舎が焼討ちされる、薄荷農場の畑が荒らされ作業場の蒸留装置が破壊される…といった襲撃事件である。
一九四三年頃からである。
加害者は同じ邦人である、と被害者はすぐ知った。
事件直後、闇の中、日本語で「国賊!」とか「天誅!」と叫び逃げ去る者がいたからである。
当時「繭や薄荷の生産は利敵産業である」という説が広まっていた。利敵とは「祖国日本が戦っている米国を利する」という意味である。
米国で絹糸はパラシュートの材料になり、精製された薄荷は爆薬の原料やエンジンの冷却材として使用されるというのだ。
実際は、パラシュートは当時ナイロン製に変わっていたという説もある。
薄荷が、爆薬の原料やエンジンの冷却剤に…という点については、筆者が人を介して専門家に問い合わせた処「そうであった可能性は少ない」という。
しかし当時、加害者側は利敵産業と決めてかかっていた。
この養蚕舎、薄荷農場の襲撃に関する確かな一次資料は僅かしかない。
サンパウロ州公文書保存館発行のポルトガル語の小冊子=臣道連盟・テロリズムと制圧=」(二〇〇〇年刊)の中で二頁ほど、簡単に触れているだけである。
それによれば、一九四四年四月二十四日から二十八日にかけて、マリリアで六棟の養蚕舎が焼討ちされた。
その後、焼討ちはリンス、アリアンサ、アンドラジーナ、ポンペイアと続き、一九四五年一月のミランドポリスでの事件を最後に終わった…ということになっている。(右の地名はいずれもサンパウロ州中西部から西部にかけての邦人集中地である)
しかし、これは警察沙汰になった事件だけである。警察に届けないケースも多数あった。
興道社
右の襲撃を扇動・指揮したと疑われた日本人の秘密結社があった。
興道社である。養蚕・薄荷栽培の撲滅・防止運動をしていた。
興道社は、日本陸軍の退役軍人たちが一九四四年二月創った。大佐脇山甚作、中佐吉川順治、大尉山内清雄、軍曹渡真利成一らである。(渡真利には伍長説もある)
脇山は、本稿ですでに何度か登場している。吉川は、前章でその名が出た。
山内を加えてこの三人は、陸軍士官学校の同期生であった。ただし山内はかなり早い時期に退官、吉川も定年を待たず辞めている。(吉川はキッカワと読む)
三人は申し合わせてブラジルに移住したという説もある。が、吉川家とは家族同様に暮らしていた人の話によると、どうも、そうではないらしい。偶然あるいはそれに近い成り行きであったようだ。渡航時期もバラバラであった。ただ、移住後は親しくしていた。
興道社の代表者=社長=には吉川がなった。軍人の序列から行けば、脇山がなるのが自然であったが、脇山は既述のように警察に拘留されたことがあったため、監視されている筈、と用心して辞退したという。
「祖国日本が、米国を相手に苦戦している時、ブラジルの同胞の中には、利敵産業で儲けて有頂天になっている者が増えている。しかるに、それを正す指導者がいない。だから我々が立ち上がる」
というのが、興道社設立の動機だった。
ただし、繭や薄荷は、当時ブラジル政府が増産を奨励中で、興道社の運動はサボタージュに当り、違法行為であった。そこで秘密結社にした。
時期的には襲撃事件の頻発と重なっていた。
その扇動・指揮を興道社がしたという嫌疑がかかり、吉川は一九四四年八月、DOPSに連行・留置された。この時、興道社犯行説が生まれた。
吉川は、DOPSから未決囚拘置所に移され、長期間、拘置された。が、結局、釈放されている。(つづく)