ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(187)

 その後、サンパウロに出、家庭奉公人=下男=までした。屈辱的であったろう。
 そんな時、野村忠三郎と知り合い助けられた。以後、野村の弟分の様に振舞う。
 藤平はスポーツに熱心であった。邦人の陸上競技大会があると、必ず参加していた。
 そのスポーツ活動には、東山の総支配人君塚慎もよく顔を出していた。藤平は「君塚さんには可愛がってもらった」と後に誇っている。
 この君塚の世話によるものではないかと思われるが、日本の有名なスポーツ用品業者から商品を輸入、販売をするようになった。店も持った。
 漸くまともな仕事を手にしたのだが、日本の開戦で、それも駄目になった。彼の知人の話だと「嫁さんに食わせてもらっていた」という。
 押岩によると、
 「戦時中、日本人の集会は禁じられたが、スポーツ大会は許されていた。ワシはキンターナから、選手団を連れてサンパウロへ来たことがある。
 競技場でスターターをしている藤平を見かけた。その頃、彼は路上のロッテリア売りをしていた」
 またもどん底に落ちていたのだ。
 藤平はその頃、DOPSに何かのことで拘引・留置されたことがあった。そこには宮腰千葉太も収監されていた。
 それで縁ができ、宮越が日本から導入、北パラナの(現在の)ウライで栽培していたラミーの精製・加工事業を試み、会社をつくった。
 この会社の社長に野村を据えている。ただし、まだ準備段階で名義上のことであった。
 斯くの如くで、藤平を特徴づけるものは、名の売れた有力者に対する接近である。
 終戦時、彼は三十歳を少し超していたが、俊敏な男だけに、すぐ敗戦を認識した。
 戦勝・敗戦問題が起こると、何故かアチコチ駆けまわって情報を蒐集、戦勝報が臣道連盟から発せられている、と判断する。
 次いで兄貴分の野村と共に、時局認識運動を起こした。
 藤平は、この認識運動では、兄貴分を引っ張っていたと思われる節がある。
 さらに戦前、日系社会の指導者格と見做されていた面々を担いだ。
 こういう行動の動機が、何であったかは判らない。
 名前通りの正義感からだったかもしれない。喧嘩好きな性格にもよろう。が、別の思惑もあったろう。
 押岩は「藤平はしたたかな男で、アレを機会にのし上がり…」と評している。
 藤平は後にブラジル豊和工業を起こし、日系社会屈指の実業家となる。
 いわゆるやり手であった。
 それほどの男でも、認識運動では状況を誤認、なすべきではなかったこの運動を牽引、突っ走っていた。
 
 子供まで巻き込む

 繰り返すが、戦勝派と敗戦派の関係は、当初は意見の違いに過ぎなかった。
 それが、認識運動が起こったため、感情が混じって対立化、険悪化して行った。
 何処でも、そうであった。同じ入植地、同じ町、同じ職場で…。
 ポンペイアのジャクチンガ植民地に居って戦勝派だった国井精は、こう語る。
 「ジャクチンガは、当時、百家族近く居った。敗戦派に強力なリーダーがいて、その比率が他所の地域よりズッと多く、戦勝派六、敗戦派四くらいの割合だった。
 ワシの家は戦勝派で、親父は隣の敗戦派の家から、贈り物に卵なんかを届けて来たりすると『持って帰れ!』と。
 こちら(戦勝派)が日本学校を再開しようとすると、向こう(敗戦派)が警官を連れて乗り込んできて閉鎖させる、というようなこともあった」
 そんな具合で、感情的対立は子供まで巻き込んだ。
 同じポンペイアの市街地に住み、家族が戦勝派だった白石静子(九章参照)は十代半ばであった。こう思い出す。
 「ウチの親族に不幸があって、葬儀の時、近くの敗戦派の人が香典を届けに来ました。私は一緒に住んでいた叔父に言いつかって、返しに行きました。 
 『申し訳ありませんが、これは受け取れません』
 と。すると向こうは
 『香典を返されたのは始めてだ』
 と。
 『ハイ、私も返すのは初めてです』
 と。
 商売を大きくやっている人でした」
 筆者が、この白石静子から話を聞いたのは、彼女が晩年になってからであるが、美人の面影を留める容貌であった。子供の頃は、さぞ可愛いらしかったであろうと思い、写真はないか聞いてみた。「ないけれど、叔母が持っているかもしれない」という。
 その叔母、橋本多美代が他日、わざわざ持参してくれたが、写真の中の静子の目つきの鋭さに驚いた。
 国井にそのことを話すと、
 「当時は、戦勝派と敗戦派の対立の中で、子供までが、そんな目つきになっていた」
 ということであった。(つづく)

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