ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(189)

 文協の日本移民資料館に、その写真が幾枚かある。次の様な内容である。(原文のママ)
 「君は畏れ多くも皇室に対し奉り不敬の言語を弄したる罪は罪悪の極に達す。依って必ず我々の手で君の命は成敗するから今より首を洗って待って呉れ給え」
 「君は日米終戦後、敗戦を唱え各所に皇室の悪口を言外するを聞く。依って我々の手で天罰を與えるから命のある中より首を洗って死後恥かしくない様にしてゐろ」
 サンパウロ州のほぼ中央部を走るアララクアラ線のモツーカ駅の近くにあった東京植民地に馬場直一家がいた。馬場については、三章で触れたが、彼はこの植民地の創立、建設の功労者であった。
 しかし、その馬場の一家が、追われるようにしてここを去っている。敗戦派であったため、脅迫状を送りつけられたのが原因だった。
 植民地内には戦勝派が多く、馬場には強い反感があった。
 馬場の娘、赤間エウザが二〇〇九年、次の様に、筆者に話している。
 「脅迫状には、何月何日に行くから、風呂に入って身体を清めておけと書かれていました。家族は、その前日、植民地を離れました。
 私はその時十二歳で、アララクアラの中学の予備校に通っており、先生の家に下宿していました。そこへ家族が迎えにきました。
 転居した先はピラシカーバでした。日本人が少ないそうだから…というのが、理由でした」
 脅迫を受けた側は、神経をとがらせ、警察に保護を頼む者もいた。その折、脅迫者の心当たりとして、戦勝派の団体名を出すこともあった。特に臣道連盟の名を。これが連盟に対する警察の疑惑を生んだ。
 しかし、どんな人間が脅迫状を書いていたのだろうか?
 この件に関して二〇〇八年、ブラジリアに住む二宮文豊という人が、手紙で貴重な情報を筆者に送ってくれた。
 それによると、同地に福士勘次郎という農業者が居て、この人が生前、脅迫状を敗戦派に送りつけた話をしていたという。
 二宮は、
 「福士さんは真面目で、戦前型の、日本人としての誇り高い人物で、多くの困窮者の世話をしました。
 頑固で純粋で、昔の武士に似た処があった。酒の好きな侍でした」
 と、その人物像を描いている。
 福士は一九一六(大5)年、岩手県に生まれた。終戦時は三十歳近かったことになる。イタケーラで養鶏を営んでいた。脅迫状を送ったのは、その頃であろうが、こう話していたという。
 「敗戦派が、余りにも日本が敗けたことを強調するので、何故そこまで悪く言わねばならないか、と反発を感じた。
 同じ様に義憤を感じる七、八人の仲間で相談、脅迫状を書いて、夜、こっそり敗戦派の家に投げ込んだ。
 その行動は決して外部からの連絡によるものではなく、組織的にやったものでもなかった。ただ自分たちの信念に反する言動に対しての反発心としてやった」
 文中の「連絡」は、指示または煽動の意味であろう。
 福士は、苺栽培で一九七七年、山本喜誉司賞を受賞している。
 この福士のイメージと前出の脅迫者たちのそれは結びつきにくい。
 脅迫者は多様であったのであろう。
 その中には、臣道連盟やその他の戦勝派の団体に属している者がいたかもしれない。
 が、組織的に行われたと判断できる材料は無い。
 しかし、この脅迫の頻発が、殺気を一段と強めていた。

 三浦鑿、死す

 ここで『大騒乱』はひと休みして、別の話を記す。
 終戦の年の十月、日本で(四章と七章で登場した)三浦鑿が故人となっている。
 一九三九年、ブラジルから国外追放となり、欧州経由で翌年末、日本へ帰った三浦は、以後は東京で、1人で暮らしていた。その内、日本は米英に開戦した。
 戦時中、三浦は警察と憲兵隊の監視下に置かれ、時々呼び出され留置され訊問を受けた。何故、そうなったのか。
 これについても諸説ある。
 「ブラジル時代から三浦を狙い続けたサデストの岸本次男が追い打ちをかける情報を日本の警察に送っており、要注意人物とされていた」
 とか
 「戦時中、三浦が日本の戦争を批判する手紙を時々、姪宛てに書き、それが憲兵隊の手に落ちていた」
 などである。
 最後の留置が一九四五年五、六月頃で、この時は終戦後の十月まで長引いた。
 留置中、拷問を受けていた、とする資料もある。 
 出所後、それ以前から身を寄せていた力行会の永田稠の下に戻った。が、栄養失調で憔悴しきっていた。しかも出所の日は雨でズブ濡れになっており、風邪をひき肺炎を起こし、結局逝ってしまった。六十三歳であった。

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