ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(163)

 ところでジュケリー産組(後のスール・ブラジル農協)のことであるが、あの中沢源一郎が専務理事となり、経営再建中だった組合は、どうしていたろうか? 
 が、当時に関する資料は僅かしかない。ただ一九四二年には、精農貯金二㌫制度を設けた、と一資料にある。コチアの増資積立金と同じモノである。
 もっとも、資本金への繰入れは一㌫で、もう一㌫は不時の支出用であり、時期がくれば払い戻すことになっていた。
 別の資料には一九四三年、サンパウロの一小組合が解散、その組合員を受け入れた、と簡単な記述があるが、人数には触れていない。
 一九四四年には、アンジェロ・ザニニという人物が書記理事に就任、以来、記録も整い始めている。
 このザニニもコチアのフェラース的役割を果たした。
 事業量は一九四五年頃で、コチアの十分の一くらいを維持していた。 
 その他の組合に関しては前記の通り資料を欠くが、中央会が順調であったということは、傘下の組合の多くが概ね同様であった結果であろう。 
 ただ、モジ産組では、政府指名の理事長が、自分に逆らう組合員や職員を、警察を使って留置所へ放り込んだ。経営は低迷したという。
 
迫害を受けなかった人や地域も

 ここからは、再び前章で取り上げた一般の邦人と迫害の話になる。実は「迫害めいたことは何も受けなかった」という人や地域もある。
 サンパウロ州西部ヴァルパライーゾに住んでいた救仁郷靖憲(ブラジル生まれ、後に下院議員)は、戦時中は十歳前後であったが「何もなく、普段通りの生活だった」という。
 ほかにも、そういう話は結構ある。
 以下、前章で利用した憩の園の聞き取り調査の別の部分である。
 ▼男性Y
 「サンパウロに居ましたが、禁足されたくらいで、幸せな方でした。戦争のために苛められたことはありません。ただ、カデイア(留置場)に入れられなかったのは、近所でも私と他二、三人でしたネ」
 ▼女性A
 「リオに居ました。そんなに酷い目には遭わなかったです。調べに来た人が写真か何か見て遊んでいましたが、何も悪いことなんかしなかったです」
 ▼男性U
 「私の住んでいた処は(周囲のブラジル人が)日本人に好感を持っていてくれたので大丈夫でした」
 ▼女性A
 「当時はコチア(村)に居りました。自分の周りでは、何もありませんでした」
 ▼男性T
 「戦争中は、ノロエステ線のカフェランジアで洋服仕立ての店を開けていました。迫害や嫌がらせといった目には全然遭いませんでした」    (以上)
 日本人を保護したブラジル人も居た。
 マリリアは、日本人の大集団地であったが、戦時中は迫害めいたことは少なかった。
 これは、前章で少し触れたが、ブラジル人の市長が、この地に於ける日本人の功績をよく知っており、
 「マリリアは日本人がつくった。その日本人に無法なことをしてはならない」
 と市民を指導したためという。
 当時そこに住み、市長を個人的に知っていた人の話である。
 また、岸本書は次の様な話も紹介している。
 ペナポリス(サンパウロ州西部)の日系植民地で、一人の邦人が、別の邦人たちに恨みを抱き、捏造した告発を警察にした。
 その告発の中に、警察署長の暗殺を計画しているという部分があった。ために一三人の入植者が拘引された。彼らはサンパウロのDOPS(前章参照)へ送られた。
 この時、ペナポリスのブラジル人市長が一三人の救出に奔走、サンパウロまで行き、軍の知人や州政府の執政官(任命制の首長)を動かし、釈放に成功した。
 三度(みたび)憩の園の聞き取り調査より。
 ▽女性Y
 「それが、とても大切なことなのです。
 私は、あの当時はタピライという炭焼きを主にする日本人の集落に居りました。
 そして大東亜戦争が始まったことを知らされた時に、領事館の人も大使館の人も皆、引き上げてしまった。
 移民じゃなく棄民になったといって皆、嘆きました。(文中、領事館は総領事館、領事館のこと)
 どういう迫害が来るか、と日本人会で集って、色々な話合いをしました。

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