
被爆者の生の証言を舞台演劇に
盆子原国彦さん(84歳、広島県出身)は舞台の上から、1945年9月6日、原爆投下の日の辛い記憶を、ポルトガル語で一言一言絞り出すように、こう語った。
「父と一緒に事務所に行き、図面台の近くにいたら突然、真っ白な光が差し、父が自分を机の下に押し込んで、上に覆い被さってくれた。爆音と共に、爆風が窓から入ってきて、屋根も窓も、ドアも吹っ飛んだ。図面台の上におり重なっていたものをどけてくれた父の背中には、ガラスがたくさん刺さって血が流れていた。私の腕や足にも破片が刺さって、血まみれになっていた。
外に走って出て、事務所の裏に流れていた川の堤防に上がると、広島の街全体が燃え、煙が上がっていた。自宅は全壊していた。そんな時、空が暗くなって真っ黒な大粒の雨が降ってきて、真っ白な服が真っ黒になった。
自宅は爆心地から2キロでした。道では皆、助けを求めて叫んでいた。皆全身に火傷をして両手を前に出して、その腕から皮膚がぶる下がり、ゆっくりと歩いていた。そして『水が欲しい』『水が欲しい』と口々に言いながらゆっくりと水のある方に歩き、水のタンクの側には水を飲んで亡くなった人がたくさん倒れていた。今もそんな姿が目に焼き付いている」と切々と語りかけた。
「広島や長崎からたくさんの被爆者が移住しました。ブラジル被爆者協会ができた80年代には約270人も会員がいましたが、今はわずか56人になりました」と語りかけた。
最後に、自分の家族、父は胃癌、兄弟が乳がんや大腸がんで亡くなり、自分も昨年、前立腺がんが発見されて治療中で、昨年12月には脊椎が2箇所骨折し、現在はコルセットをつけて舞台に立っていることを明らかにし、「原爆で多くの人がたくさんの放射能を浴びた。世界中に1万2千発の核ミサイルがあるのを、減らさないといけない。二度と原爆を使わないで!」と締め括った。
これはフィクションではなく、実話だ。体験者ゆえに、ポルトガル語の上手い下手を超えて、物凄い迫力で場面が目に浮かぶ。

祖母が広島出身のナガイさんが監督・脚本
これは、ロジェリオ・ナガイさん(46歳、3世)が演出・脚本・俳優を兼任するドキュメンタリー演劇『Os três sobreviventes de Hiroshima(広島の3人の生き残り)』の一幕だ。
5月3日、4日にサンパウロ市リベルダーデ区のFECAP劇場で2回公演が行われた。本来は故森田隆さん、盆子原さん、渡辺淳子さん(82歳)の3人が被爆体験を語る演劇だが、森田さんが昨年8月に亡くなったため、その遺志を継いで森田さんはビデオで登場し、俳優の大城リカルドさんが演じている。
ロジェリオさんによれば、この演劇のアイデアは2012年に生まれ、調査1年間、脚本化4カ月を経て公開が始まり、毎年数回の公演をブラジル各地を巡回しながら行ってきた。その結果、現在までに延3万人が鑑賞し、昨年はサンパウロ州知事賞にもノミネートされたという。
3日の公演を取材した際、ロジェリオさんは「祖母が広島出身で、原子爆弾についてもよく語っていた。被爆者協会の存在を知った時、もっと知りたいと思った」と演劇を作る原点を振り返った。
さらに「この劇は原爆当日の悲しみだけでなく、乗り越えていく過程まで描いています。被爆者である彼らがなぜブラジルに来たのか。こちらでの文化的ショック、ブラジルでの生活まで描いています」と説明した。
ブラジル社会に核廃絶の重要性を訴える作品なので、登場人物は全てポルトガル語で喋る。本物の被爆者が自分の被曝体験を語るだけでも、観客であるブラジル人にはインパクトが強い。しかも、その被爆者がブラジルに移住したことで、ブラジル人にとっては「まるで近所で起きたこと」のように身近に問題として捉えられるようになるという意味で、観客への衝撃は強い。
「広島の街を見て平和を感じた」

「広島の街を見て平和を感じた。原爆を落とされたという歴史からもっと荒廃した街をイメージしていたら、逆に復興した姿に圧倒された。その活気ある姿の裏にある悲しい歴史に、とても独特なものを感じた」--朝日新聞サンパウロ支局に勤めたこともあるというジャーナリスト、デニーゼ・ベルトラさん(44歳)はそう感慨深そうに、日本の印象を語った。
彼女は小さい頃から空手を習い、日本文化に興味があり、日系人と結婚して、夫と共に2007年から3年間訪日就労を経験し、その間に広島や沖縄を旅行した時の印象を、冒頭のように述懐した。帰伯後に朝日新聞支局に勤め、その時にブラジル被爆者協会の存在を知り、昨年亡くなった同協会創立者の森田隆さんらと知り合い、協会の歴史を調べるうちに、本にまとめようと考え、『ADEUS, HIROSHIMA sobreviventes da bomba recomeçam a vida no Brasil』(CHIADO Editora, 2016)を出版した。この本の調査内容を原作として、このドキュメンタリー演劇は作られた。
「森田隆さんは1984年にブラジル被爆者協会を創立して、それまで移民、在外邦人には認められてこなかった被爆者としての権利を求めて、国を相手に戦って勝ち取ってきた。彼の物語は特筆に値するものだ。戦争を乗り越えて、原爆で生き残って、より良い生活を求めて、誰も知り合いのいないブラジルに来て、言葉も知らず、生活基盤を一から作り上げた。その生き様は、多くの人にインスピレーションを与える。原爆投下から100年もたっていないのに、多くの人は原爆を忘れ始め、また使われる危機が高まっている」と語った。
日本以外では世界的に珍しい種類の演劇
ネット検索した限りでは、長期的かつ継続的に上演されている被曝体験のドキュメンタリー演劇は、日本国内の演劇が中心のようだ。とくに1995年初演の『この子たちの夏 1945・ヒロシマ ナガサキ』(劇団道化座)は、プロによる定期上演と全国巡演の両面を兼ね備えた、最も継続性の高い作品だと言われる。
日本国外では、ニューヨークのアーティストグループが、実際の被爆者のインタビューや手紙、記録をもとに構成した演劇『The Hiroshima Project』(アメリカ、NYC)や、英国の演劇集団『THE CHALK CIRCLE(チョーク・サークル)』(イギリス、Complicité)は、被爆者の証言や記録をもとに、原爆投下に関する演劇作品を創作し、非常に高い芸術性と批評性をもっているとして高い評価がある。
だが、定期的な上演(毎年の再演)という意味では継続性は限られており、フェスティバルや特別企画での上演が中心のようだ。まして、被爆者本人が自分の体験を語る形の海外のドキュメンタリー演劇は、移民大国ブラジルだけのようだ。

ロジェリオさんは『Os três sobreviventes de Hiroshima』の脚本を書く際、ラストシーンをどうするかが思い悩んだという。アメリカを悪者にして終わるのは簡単だが、それだけの問題でもない。その結果、より深みのある結末になった。
被爆者たちは時にコミカルな場面も演じたり、ひまわり和太鼓の演奏に合わせて歌い踊ったりと、ブラジルらしい人間味も発散する。原爆投下という人類史上の犯罪とも言える惨劇を扱っているにもかかわらず、見終わった後味には、どこか平和と回復力について考えさせる余韻が残る点が俊逸だ。ロングランとなっている理由の一つだろう。
終幕後に観客の一人、バルバラ・ジャルジンさん(33歳)に感想を聞くと、「子供の頃にあのような体験、道端にたくさんの死者や怪我人を見ながら母親を探すような経験をしたという証言には、言葉を失った。身に迫る、目に浮かぶような感じがした。物語ではなく、実体験であるという迫力に圧倒された」としみじみ語った。

今こそ重要さを増すこの演劇の意味
舞台の後で、来場者からの挨拶を次々に受ける合間を縫って、渡辺淳子さんにこの演劇を続ける理由を聞くと、「今、世界中で戦争が起きています。原爆がどんな危ないものかを皆に知ってほしい、その思いで続けてきました。原爆によって体が傷つくだけでなく、差別されて心も傷つく。私は2歳だったので記憶こそありませんが、皆から話を聞いて被爆者の気持ちは誰よりもよく分かります。舞台ではその気持ちをいつも思い出して、彼らの想いを込めてしゃべっています」と述べた。
彼女は昨年末、被爆者団体「日本被団協」が受賞したノーベル平和賞授賞式にブラジル代表として出席した。ロジェリオさんは「このノーベル平和賞受賞は、ブラジルにとってもとても重要なことだと思うのに、なぜか当地メディアはあまり大きく取り上げなかった。私的には、もっと早く受賞しても良かったと思う」とむしろ残念がった。ロジェリオさんは、この演劇へのスポンサー支援を求めて日本進出企業を始め、多くを訪問したが不思議なことに全部断られたという。
被爆者が多くブラジルに移住したのは、南米には一つの原爆もなく、パラグアイ戦争以降は一世紀以上も本格的な直接武力衝突が起きていない地域という理由もあったかも知れない。
現在、世界全体で核ミサイルは約1万2500発も保有され、アメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリス、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルなどに散らばっている。そのうちの半分以上、ロシア、北朝鮮、インド、パキスタン、イスラエルが事実上の戦争状態にある。ルーラ大統領はまさにそのロシア、中国に訪問している最中だ。
もしも今、都市部への核投下が起きたら、1発で数十万人規模の死傷者が発生する。10~20発でも数千万人が死亡する可能性がある。それを少しでも遠ざけるような世論を形成するという意味では、この演劇ほど重要なものはないと思った。(深)