《特別寄稿》G7広島とラ米における平和活動=アルゼンチンに渡った被爆者=ブエノスアイレス 相川知子

(注1)被服工場は広島旧陸軍被服支廠倉庫を指す。爆心地から2・6キロ。被爆直後は臨時救護所として機能した。原爆の熱で歪んだ鉄製扉を観察し、取材する広島市の崇徳高校新聞部高校生記者らはG7広島でも活躍した。被爆者のKさんも彼らと同じ年ごろだった。(崇徳高校新聞部提供)

 「あんなことが起こったからね、いちばん遠いところへ行きたかったんです」。広島からブエノスアイレスに花嫁移住をしたKさんの証言はこのように始まった。
 1999年、宗教の枠を乗り越えて平和の祈りをささげる会が開催されたときのことである。Kさんは学徒動員で被服工場へ働きに向かう途中、バス停で被爆した。(写真注1)
 重度のやけどを負い、奇跡的に助かったが、痛み以上に痕が残り、心理的にも身体的にも苦痛の日々だった。そのうえ、広島でも被爆者には差別があり、特に女性は結婚相手に苦労したことがあった。
 「渡りに船とはまさにこのことで、移民船に飛び乗ったんです」「アルゼンチンに来たら、もう食べ物がいっぱいでね。人々もやさしくて明るい」
 Kさん夫妻はクリーニング店を営んでいたが、「ある日、お客さんが『Anata』はどうしたんだ、と聞くんです。何のことかわからなくて…。実はいつも洗濯物を受け取って、後ろでアイロンをかけている夫に渡すときに『あなた』と声をかけていました。夫はちょうど用事で数日出かけていたので、お客さんは心配してくださり、『Anata』という名前だと勘違いされていたんですね」との逸話を披露した。アルゼンチンで幸せだという日常の何気ない話に、その場にいた皆が涙した。

(注2)2019年、ラスパンティ教育大学平和フォーラムにて平和首長会議認定ヒロシマ・ナガサキ講座が開催された

アルゼンチンからG7広島へ派遣のジャーナリスト

 アルゼンチンの新聞ペルフィル紙のセシリア記者がG7広島へ派遣されるからと、広島市特任ひろしま平和大使として紹介された。
 広島出身の著者は子どもの頃、夏休みの最中の8月6日が登校日であった。当時は半ばいやいやで出席していたのに、Kさんの被爆者証言の通訳を頼まれたことでその記憶が呼び覚まされた。その後通訳を重ね、学校訪問などで広島セミナーを行うようになった。子ども達に夏休みの登校日があるような街にならないように、平和に仲良くしましょうと折り鶴教室などで呼び掛けていることをセシリアさんに話した。
 モロン市のラスパンティ教育大学での地球市民のためのヒロシマ・ナガサキ講座の写真を見せたら、子ども達が完成させた千羽鶴にセシリアさんは目を留めた。(写真注2)

(注3)2022年10月、広島で開催された平和首長会議総会に千羽鶴を持参した筆者。被爆者の方々にアルゼンチンの子ども達が折りましたとお見せしたら、上手に折ったのねと喜んでくださった

 2歳で被爆し10年後白血病で入院。回復を願い千羽鶴を目指し2千羽以上折ったのに亡くなった佐々木禎子さんが世界中で「SADAKO」となり、折り鶴は平和のシンボルになった。(写真注3)
 平和記念資料館にその折り鶴があるから是非見てきてほしいと頼んだ。原爆という核兵器の恐ろしさは戦争や武器の死傷者が出るだけではない。そのときは無事でも後遺症に悩まされ、亡くなることもあるのだと説明した。
 5月18日正午前、平和記念資料館を見学したばかりのセシリアさんから「あまりの衝撃で言葉にできない。広島の人に会いたい」とメッセージが来て、崇徳高校新聞部と連絡を取った。正午から平和記念資料館をはじめ、広島の都心部は入場制限がかかり、19日からG7が開始され、セシリアさんは連日アルゼンチンにニュースを送った。(写真注4)

(注4)日本政府の「G7広島サミット・外国報道関係者招へい」事業で10人の記者の一人に、アルゼンチンから唯一選ばれ、訪日を果たしたセシリア記者。岸田首相が会見をした慰霊碑の前で撮影

G7で世界が広島に注目

 G7広島開催の意義については様々な見方があり、それがまた多様な世界を創るのであろう。教育に携わるものとしては、できなかったことよりもできたことを評価したいと思う。広島が開催地となったことで、世界中のメディアが報道し、多くの人が想いを寄せてくれたこと、これはまぎれもない事実であり、今までにない成果であった。
 英語で被爆証言活動をする小倉桂子さんは首脳陣を前にして「広島によくいらっしゃいました」と歓迎の言葉で証言を始めたと言う。(写真注5)

(注5)平和記念資料館前に施された「G7HIROSHIMA」の花文字。広島市内の小学生が歓迎のため育てた花で作られた

ラテンアメリカで人と人を結ぶ平和活動

(注6)平和首長会議に加盟しているフロレンシオ・バレーラ市の市長が、日本人会(上原フェルナンド会長)のお祭りに参加し平和文化活動を開始すると表明した。その時の様子を広島出身の山内弘志駐アルゼンチン日本国特命全権大使がインスタグラムに掲載した(https://www.instagram.com/p/CsO-ncmAeu0/)

 広島に行ってもらわなければなかなか伝わらないことは多い。
 しかしながら、この世界を少しでも平和にして、次世代に渡して行かなければという使命感で、証言を続ける被爆者の方々、そして今は亡きKさんのためにも、特に友情を基盤とする平和文化活動を伝え、広げていかなければならないと活動している。(写真注6)
 日本とは地球の反対側になる南米の人のことを日本の方々に知ってもらい、理解を深め、気持ちが結ばれ続けば、世界はきっと、もう少し平和であろう。だからこそ、南米の鼓動を伝えるブラジル日報にてアルゼンチンからの声を伝えていきたい。(6月7日 ブエノスアイレス 相川知子)

・補足
 広島での経験を伝えるセシリア記者のインスタグラム(https://www.instagram.com/p/Cs6YRXLOH6B/
 平和記念公園訪問ウクライナに関与する原爆の影(PERFIL紙CECILIA DEGL’INNOCENTIの記事)https://www.perfil.com/noticias/internacional/comenzo-la-cumbre-del-g7-en-hiroshima-con-la-sombra-de-la-bomba-atomica-sobre-ucrania.phtml
 平和首長会議について(https://www.mayorsforpeace.org/ja/about/join/


相川知子 広島出身 JICA海外開発青年として1991~4年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスにある在亜日本語教育連合会で活動。その後、同国に定住し、スペイン語通訳、翻訳、教師、食品ロジスティックアドバイザー、テレビ撮影コーディネーター、ライター業などに従事。「アルゼンチンをはじめラテンアメリカの人々の素顔を日本に紹介をすること」をライフワークとし、1998年から『主観的アルゼンチン・ブエノスアイレス事情』http://blog.livedoor.jp/tomokoar/ で情報発信中。
広島市特任ひろしま平和大使。平和首長会議専門委員。FUNDACION SADAKO主宰。

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