
3日目は大阪万博へ
3日目、4月23日(水)は曇りで雨の可能性がある朝を迎えた。その日は大阪万博に行く予定の日であった。私たちは和歌山から天王寺駅まで直行する電車に乗った。そこでホテル東横イン天王寺に2泊の宿泊を予約した。荷物をロッカーに預けて万博へ向かった。まずは駅構内のレストランで昼食をとり、そこから大阪万博の会場である夢洲へ向かった。
大阪万博は巨大である。一日で全てを見るのは不可能だ。私たちは、関西パビリオンの和歌山ゾーンとブラジルパビリオンを訪問することにした。関西パビリオンの和歌山ゾーンでは、和歌山県万博推進担当参事の中瀬雅夫氏が出迎えてくれた。彼は、2018年2月に観光PR活動ですでにブラジルを訪れている。その際、和歌山県人会にも訪れている。
彼は私に、上質でエキゾチックな和歌山のデザートを味見させてくれた。それらは洗練された和菓子の変り種であった。この親切は、彼が同僚とブラジルに来た時に私たちが彼に示した配慮によるものだと想像する。
その後、ブラジル館を訪問した。そこで私は、パビリオン館長のアデマール・スカリンスキー・ジュニア氏に迎えられた。彼は私に、装飾の概念を説明してくれた。それは、呼吸する生きた自然のように膨らんだり縮んだりする人形を通して、進化と退化という、常に変化する世界を表現することなのだという。やや抽象的であり、メッセージを理解する訪問者はほとんどいないと思う。さらに、ブラジルの各地域ごとにブラジル文化を紹介する映写室もある。この部分は理解しやすく、ほとんどの訪問者は祭りやブラジルの民間伝承を楽しむためにそこに腰を下ろす。
そこで、私と田井さん、貴子さんの3人に、アルマンド氏から直接、お土産として「パランゴレ」を受け取った。続いて榎本綾子さんへのインタビューセッションが行われた。私はポルトガル語で返事をし、阿部久美子さんが日本語に翻訳した。この記事は4月30日のブラジル日報に掲載された。それから、私たちは他の国のパビリオンの前を少し歩いたが、いくつかのパビリオンでは入場を待つ訪問者の長い列ができていた。それから天王寺に戻った。お二人に東横インホテルまで同行していただき、荷物を部屋まで運んでいただいた。
そして二人(田井さんと貴子さん)に別れを告げて、3日目の訪問は終了した。
4日目、あっという間の魔法のような瞬間
4日目の4月24日(木)は出発前に大きなスーツケース2個を宅急便で東京のホテルに送った。これにより、翌日の東京への旅行が容易になった。午前11時、天王寺駅の中央の改札口で池永彰吾さんと奥様の厚子さんに会った。厚子さんは私の父方の従妹です。そこから私たちは大阪駅に行き、そこで他のいとこたちとランチを予約していたレストランへ向かった。それは流れ星のようにあっという間に過ぎ去った魔法のような時間であった。その後、私たちは別れを告げ、私は休憩するためにホテルに戻った。疲労感が襲い始めた頃であった。
5日目、東京へ移動
5日目の4月25日(金)は、東京へ出発する予定の日であった。新大阪駅でカニめしとすき焼きめしの弁当を買って、旅の途中で食べた。お弁当からは紐が出ていて、食べる前に紐を引っ張るだけですぐに温まり、温かいお弁当が食べられるようになっていた。この実用性に驚いた。
私は田井さんの助けを借りて和歌山で新幹線の切符を予約し、静岡を通過する富士山が見える窓側の席を予約してもらった。曇り空にもかかわらず、頂上が雪に覆われた堂々とした富士山を見ることができた。
東京に到着後、タクシーに乗ってアパホテルプライド赤坂国会議事堂前へ直行した。あと4泊滞在する予定であった。午後から自由時間ができたので、上野へ買い物に行った。関西風お好み焼きの定番食材であるサクラエビなど、買えるものがたくさんあった。
軽いので1kgでもかなりのスペースを占有してしまう。念のため2kg購入しようと思った。しかし、サクラエビは大量には見つからなかった。小さなパッケージのみならあった。私は再び戻って、大量にサクラエビがある新谷商店を探さなければならなかった。和歌山でたくさんの贈り物をいただき、スーツケースがいっぱいになってきた。でも、しいたけや昆布、既製のだしなども買った。こうして5日目が終了した。

6日目、私の世代で終わるかもしれない親戚との関係
6日目の4月26日(土)は、東京のいとこやその子供、孫たちとの昼食会が予定されていた。肉や魚など北海道産の食材を使った料理が食べられる、新宿の「さっぽろ」というレストランに行った。それはまた別の魔法の瞬間だったが、次の世代には言葉の壁があるため、おそらく私の世代で交流は終わってしまうだろう。新宿駅で彼らと別れて、上野アメ横に戻って「新谷商店」を探し、やっと見つかった。そこでサクラエビ2kgを買ってホテルに戻った。こうして6日目も終了した。

7日目、重鎮二人と会議
7日目の4月27日(日)には非常に重要な会議があった。重鎮が二人いた。一人目は、元サンパウロ総領事で現在は外務省中南米局長を務める野口泰氏、二人目は海外日系人協会理事長の田中克之氏であった。昼食は、赤坂のインターコンチネンタルホテル東京3階にあるレストラン「花梨」で野口氏の手配により提供された。その目的は、県連と日系社会と関係のある代表団体との連携を強化するとともに、2026年に県連60周年を記念するイベント開催をアピールすることであった。
また、日本とブラジルの修交・商工・開港条約130周年について、今年の日本祭りのテーマとしていることについても話した。
そして午後は、友人の中尾正和さんと夕食を共にした。中尾さんは、私が41年前にJICA奨学生として初めて日本に来た際、下水処理技術の研修をしたときの指導コーディネータであった。こうして7日目は終わった。

8日目、県連創立60周年記念式典に全国知事会会長を招待
8日目の4月28日(月)は、おそらくすべての会議の中で最も重要なものだったであろう。私は全国知事会を訪問した。知事会の事務総長の中島正信氏と知事会の総務部副参事の大塚利恵氏にお出迎えいただいた。目的は、県連創立60周年記念式典に会長を招待するためであった。
中島氏によると、現在の会長は宮城県知事の村井嘉浩氏である。次の改選は9月に行われるが、彼が再び会長に立候補するかどうかは不明だと述べた。現在の状況から判断すると、新会長は9月の選挙後に正式に選出されることになる。電子メールで情報を交換し、9月まで待って、それ以降に再び招待することで合意した。
そんなこんなで、みんなに別れを告げてホテルに戻った。正午に、和歌山出身で東京で働く桃井靖晃さんが迎えに来て、ホテル近くのレストランで昼食をとった。桃井さんは昨年ブラジルを訪問され、私は彼に慰霊碑や和歌山県人会、ブラジル日本移民歴史博物館などを紹介した。彼は喜んで、10月の式典のお祝いに3万円を送ってくれた。
昼食後、スーツケースにあと2kg入るスペースがあったので、上野アメ横の新谷商店に戻って、もう2kgのサクラエビを買うことにした。私はホテルに戻り、シャワーを浴びて、その後夜にジョージ・ハトサンパウロ市議とリカルド・ヌネスサンパウロ市長と前例のない会合を持った。サンパウロでは不可能だったことが、東京では可能になり、簡単になった。
私たちは一緒に夕食に行ったが、信じられないかもしれないが、私は市長と市議会議員のジョージ・ハトの隣に座ったのである。これは滅多にない機会であり、また大変光栄なことであった。私はこの機会を利用して市長を日本祭りに招待し、日本語で書かれたフォルダーを手渡した。

9日目、ブラジルへ帰国の旅
9日目の4月29日は、サンパウロに戻る日であった。朝まだ時間があったので、リカルド・ヌネス市長の随行員が宿泊するホテルに行き、前夜、送別会の最中に雨が降っていたときにジョージ・ハト氏が貸してくれた傘を返すことにした。それから成田空港行きのリムジンバスのチケットを購入した。
北京、フランクフルトを経由。38時間移動し、2回の乗り継ぎで14時間待った後、5月1日の早朝5時頃にグアルーリョス空港に到着した。旅行してみて初めて、なぜエアチャイナの航空券が最も安いのかが分かった。ビジネスクラスに乗って、座席がベッドに変わり、待っている間VIPラウンジで快適に過ごせて助かった。