下元は一時期、コチアの専務を退いて、中央会の専務に専従、新社会建設に専念しよう(!)としたことすらある。
つまり彼の狙いは、この頃は、コチアという組合の経営ではなく、新社会の建設になっていた。組合はその手段であった。
しかし連盟結成の直後、開戦という異変が起こり、枢軸国人の行動は厳重に制限され、集会すら出来なくなった。
そういう中で、産青連運動など行える筈はなかった。運動は頓挫するかに見えた。
ところが、ここが下元の下元たる所以であろうが、諦めなかった。
「戦時下の食糧増産研究」という名目で、当局の許可を得て、各地の青年代表をコチアの本部に招集、運動の維持・継続を図ったのである。
青年代表たちと情報を交換、時局への対処策を相談、深更まで、熱っぽく語り合った。
併行して、下元はコチア内部で、新社会建設の具体化に手をつけていた。
先に、施設の大増築をしたと記したが、その施設の建設工事を組合の手でやることにし、技術部なるものをつくった。
さらに建材を確保するため、森林まで購入するという徹底ぶりだった。
しかも技術部は組合外部の仕事まで受注した。
この方式を組合の総ての業務に広めて行けば「百般の事業を産組が統括、経営」することになる。それは一つの新社会となる。
戦時中という特殊な状況下でありながら、そういうことをしていたのである。
彼が新社会建設に本気だった証しでもある。
増資積立金の大幅引き上げは、その資金作りの目的も兼ねていたろう。
中央会では…
ところで、コチア以外の日系産組は、どうであったろうか?
詳細については資料を欠く。
ただ、日伯産業組合中央会が一九六九年に発行した『中央会35年の歩み』という書物があり、その中に僅かながら戦時中に関する記述がある。
意味を把握し難い部分が多いが、凡そ次の様な内容である。
中央会は一九四二年三月、その名称を「サンパウロ産業組合中央会」と改めた。「日」の文字を使用し続けることは、余計な反感を招くと判断したのだ。
同時に役員を、コチアに倣って、ブラジル国籍者とし、傘下の産組も同様にした。
さらに中央会の理事の補佐役を農務省から、経営協力委員を州銀などから招いた。(監査官については不記載)
当時、中央会の取扱い農産物は、綿が主であった。が、綿は資金がかかった。栽培、精製にかなりまとまった額が必要だった。
それを前年まではブラジル銀行やサンパウロ州銀から借り入れていた。
この一九四二年も、両行に融資を申請したが、拒否されてしまった。
理由は「リスタ・ネグラの圧力によるもの」であったという。
この部分は、意味を捉え難いが、要するに既述のリスタ・ネグラに中央会の名が載り、両銀行に「中央会には融資をするな」という圧力がかかったということである。かけていたのは無論、米英の総領事館である。
中央会そして傘下の組合が、役員のブラジル人化をしたのに、こういう圧力をかけたのは、その人選が気に食わなかったためであった。
新役員が殆ど、組合内部の人間や極めて密接な人間ばかりで、ごまかしと見られたのだ。
融資を拒否された結果、中央会、傘下の組合、組合員は大打撃を受けた。
そこで役員の再更迭をした。
この時、中央会の新理事長となったのがフランシスコ・A・T・ピーザという三十歳の青年紳士である。
このピーザは、コチアに於けるフェラース的な存在で、人柄もよく手腕も勝れていた。他の新理事と共に政府の関係機関、米英の総領事館に巧みに交渉、ブラジル銀行、サンパウロ州銀からの融資を確保した。
さらに、中央会傘下の組合が必要とするガソリン、その他の入手困難な戦時統制品を仕入れて、供給した。
これにより傘下の組合・同組合員数を増加させた。
取扱い農産物は綿のほかカフェー、米、その他各種穀物、繭、薄荷が加わった。
かくして事業は活況を呈した。
一九四四年現在の中央会所属の組合数は二十八、その組合員総数は一万四、〇〇〇人、内、邦人は一万一、〇〇〇人と、資料類には記されている。(コチアを含んだ数である)(つづく)