小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=98

 血液検査と検便を行ない、大腸菌駆除の薬を受けとり、白血球が欠乏しているから輸血の要ありと言われた。察するところ、担当医は癌によって現われる部分的患部の治療を施しているのみで、病原はそのままになっている。それでも大腸菌を殺したことによって少々気分がすぐれ、もう大丈夫だと自ら励ましていたが、母のその言葉は私にはたまらなかった。
 父は自分の書籍類を他人が整理するのを非常に嫌うため、私たちは手をかけぬことにしていた。ある日、余りにも埃まみれなので、父に内緒で埃を払ったが奥までは落ちない。止むを得ず全部を引き出し、清掃し元の場所に戻していたら、本箱の奥からヌード写真や、ダンスに関する書物に混ざって『癌』とか『癌の治療法』『癌に関する十二章』などが出てきた。頁を繰ると写真入りで癌の兆候が様々に説明されている。癌患者が衰弱すると、大腸菌が増加すること、制癌剤を投与すると、白血球が減少するとの記述もある。父は人知れずこうした書物を集めて母の治癒を研究していたのだ。
 以前はよくサルトルやカミュなどを読んでいた。あまり解ってもいないらしいが、少しでも新知識を吸収しようとする意欲は買えた。近頃の父はさっぱりそういう書を読まないし、かつてなかった物忘れをした。私の買物を忘れるぐらいならいいが、仕事の肖像画の仕上げを忘れたり、写真の二重写しを犯したり、仕事にも、読書にも以前のように熱が入っていない。母の病態はもちろんだが、父の様子も気にしないではいられない。まるで夢に遊ぶように頼りない昨今なのである。
「パパ疲れてるようだわ。お店の仕事は小僧さんに任せてゆっくり休んだ方がいいわ」
「心配しなくてもいい。いまひと働きしなけりゃゆっくり落ち着くこともできない。ママの病気も一進一退だし、今のうちにママの欲しがっている家を建てようかと考えているんだ」
 父の意外な発言に驚いたが、母はかねがね住宅を欲っしていたのは事実だ。しかし家が建つまで母の病勢はどう変化するか計り知れない。
「ママはあんなだし、それにお金大丈夫なの?」
 私は父の仕事から得る収入がどの程度のものか知らない。大したものでないように思えるし、母の治療費も嵩むばかりだ。父は思い切ったことを言い出したものだ。内心では心配だが、一度言い出すと聞かない父の性格を知っていた。そういう企画でも立てて母の病苦を和らげ、希望をもたせ、そして父自身も母の病気を一刻でも忘れるために、何物かに熱中したかったのかもしれない。

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