小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=1

第一章
 
革 命
 
 リオ・デ・ジャネイロ港は、深い霧に包まれていた。世界美港の三指に数えられるその市街に、船客たちは逸速く上陸許可を希んだが、日本の移民船《らぷらた丸》は湾内に投錨したままだった。
 この日、ブラジルは護憲革命の渦中にあった。暫定中央集権の独裁者ジェツーリオ・ヴァルガスの秕政(ひせい)に抗して、サンパウロ州義勇軍の率いる連合軍が政府打倒に蜂起した、いわゆる一九三二事変である。攻防の伯仲する戦塵に包まれた港湾管理局は、移民船が発信する、入港、着岸要請の無電をキャッチしないのである。
 朝も十時近くなると、湾内を濃く覆っていた霧が薄らぎ、ポン・デ・アスーカルの巨岩が姿を現した。突然《らぷらた丸》の近くに繋留されていた水上飛行艇の一機にエンジンが始動し、助走の爆音とともに水を蹴って翔上した。飛行艇は緩い旋回飛行を直線に戻すと、機首を移民船に向けて飛来した。甲板で見上げていた船客たちに、艇のフロートから海水が降りかかった。
「何だよ、あの野郎!わざわざ移民船すれすれにぶっ飛ばさんでもええのに」
 田倉惣一は、頭から浴びた海水を手で拭いながら、苦々しく罵った。田倉家では、時々関西特有の荒っぽい方言が飛び出すのだった。
 今回のブラジルの内紛は、船内の壁新聞でも報じていた。移民船の入港には何ら支障あるまいと楽観されていたものの、いざ入港となると、当局との交信は全く不通となっている。
 噂では、午後までに先方からの回答が得られなければ、船舶はこのまま沿岸をサントス港まで南下し、そこで着岸を試みる。それが不可能な場合は、さらに南下を続け、ブエノス・アイレス領水に仮泊して、ブラジルの内訌の治まるのを待つという。ただし、八百名近い移民を賄うべき船艙の食糧と水は、もはや底をつく寸前らしい。
「世の中、どこへ行っても楽土なんてあらへんなあ。日本も満州へ派兵してごたごたやっとるし、ブラジルだってこの調子じゃ、行く末が思いやられるわい……」
 田倉は潮焼けの顔を陸地に向け、飛行艇の往く先を不安げに見守った。艇はコルコヴァードの岩山からリオ市街地の上空を旋回している。しばらくすると、入れ替わりにまた別の艇が飛び立った。緊張を強いられる光景の中で、移民たちは落ち着きをなくしていた。
「ここはブラジルの首都だものね。革命軍の侵入を警戒して偵察してるのよ、きっと……」

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