《記者コラム》島んちゅ魂を次世代に受け継ぐ=小禄田原から平和な世願って交流

小禄田原字人105周年式典の様子

門中の歓迎会に130人が集まる

 「大里(おおざと)門中(むんちゅう)の食事会に呼ばれて参加したら、130人ぐらいから歓迎されて嬉しかったよ」――字小禄財産管理運営会の高良正幸(まさゆき)理事長は満面の笑みを浮かべて6年ぶりにブラジルを訪れた感想をそう述べた。
 「門中」とは、同じ祖先を持つ父系の血縁集団のこと。要は、高良理事長の親戚約130人が17日に開かれた歓迎会に集まったとのこと。「日本から親戚が来た」といって100人以上が集まるようなファミリーが、本土からの移住者にどれだけいるだろうか? そもそも日本国内でも、親戚が外国から来たと言って100人以上集まる機会がどれだけあるだろうか。
 沖縄県系人の母県との絆の強さは知られているが、中でも小禄田原地区出身者のオロクンチュ、タバルンチュは格別だ。小禄と田原というのは那覇市最南部に位置する一地区「字」にすぎない。かつては1954年に那覇市に編入されるまでは小禄村と呼ばれていた。面積は11キロ平米、現在の人口は5万8千人ほどだ。
 飛行機で沖縄に行く場合、那覇空港に到着する。そこが小禄地区だ。那覇市唯一の在日米軍基地である那覇港湾施設(那覇軍港)も存在する。つまり空港と港が集中した沖縄の玄関口であり、大戦中は日本軍の戦略的要衝として1平米当たり砲弾2発とも言われる米軍の集中的な艦砲射撃を受けた場所だ。

小禄半島の航空写真(1973年)による旧小禄村のおよその位置(国土地理院 (GSI), via Wikimedia Commons)

 元々ウルクンチュには門中意識が強い人が多い中、戦争被災者が大量に生まれ、戦前にブラジルへ渡った親戚を頼って多くが戦後移住した。その結果、那覇市の小さな地区をルーツとする巨大なコミュニティが地球の反対側に生まれた。
 高良さんが会長をする財産管理運営会とは、その地区の住民が共同で利用していた入会地が戦後米軍に接収された際に、借地料を受け取って共同で管理するために作られた沖縄独特の組織だ。各地区に「自治会」と「財産管理運営会」の二つがあり、小禄自治会館内に同運営会は所在する。
 昨年11月2日には、第7回世界のウチナーンチュ大会で集まってきた同地出身者を集めて、「世界のウルクンチュ・タバルンチュ歓迎・親善交流大会」が同会館で盛大に開催された。その様子は本欄22年11月15日付《記者コラム=台湾有事と世界ウチナーンチュ大会=ユイマール精神で生き残る島んちゅ》(https://www.brasilnippou.com/2022/221115-column.html)で詳報した。

母県側が驚くブラジル側のおもてなし

 今回はブラジル小禄田原字人会(与儀正晃(まさあき)会長)が主催する「ブラジル小禄田原字人移住105周年記念式典」が20日(日)、サンパウロ市サンジョアキン街の客家センターで開催され、沖縄からの慶祝使節団28人に加えて約1千人が集まった。それに加えて沖縄芸能団体から約250人が参加してアトラクションを披露した。
 ちなみに同日開催されたブラジル三重文化援護協会設立80周年式典にもコラム子は顔を出した。県知事・県議会議長ら慶祝団15人がブラジルを訪れ、300人が三重会館で祝った。三重県のこの催しは県人会としては標準以上に参加人数も多く内容も充実していた。本土側の県人会の節目行事としては実に立派な式典だった。
 だが、小禄田原の式典の後だとついつい比較してしまう。それほど文句なしに大規模かつ力の入ったイベントだった。上原テリオさんに尋ねると同字人会の会員は5千人もいるという。本土のへたな県人会よりはるかに多い。会場にいたブラジル沖縄県人移民研究塾の宮城あきら代表に聞くと「沖縄県人会には地区ごとの団体はブラジル那覇市民会、ブラジル沖縄市民会、ブラジル南城市民会などいろいろあるが、その中でもここは一番大きい」とのこと。

字小禄財産管理運営会の高良幸秀副会長、高良正幸理事長、上原一志さん

世代を越えて受け継がれる絆

 3月3日に開催されたハワイ小禄田原100周年式典に、運営会会長代理で出席した高良幸秀(ゆきひで)副会長は、「あっちも300人ぐらい集まって盛大だった。個人的な感想だけど、ブラジルの方が沖縄方言が通じるし、日本語も通じていいね。それにハワイでブラジルから来てた人たちと食事に行ったら、なんと同じ門中だった。僕らは世界中でつながっていると実感した」と語った。
 母県の若者にブラジルのことや県系人のことを知ってもらい、将来の交流を盛り上げてほしいという気持ちから、14人の当地有志が資金を出し合って母県から招待している4人の若者の一人、上原一志さん(かずし、46歳)にも話を聞くと、「ボニートとか観光地にも連れて行ってもらったが、こちらは自然のスケールが大きい。それに成功している沖縄系企業も見せてもらったが、やはりスケールが大きいのに驚いた。そして小禄の者同士が協力し合いながら会社を大きくしている。まさにユイマール(相互補助)の精神が凄いと実感した」としみじみ語った。
 有志がお金を出し合って母県から若者を呼んで交流を盛り上げる「両国文化経済交流生」は95周年で始まり、100周年、今回で3回目となった。他県もぜひ真似をすべき素晴らしい取り組みだと感心する。
 母県からの一行の一人、小禄地域振興会副会長の上原勝男さんは「私も妻も7回もブラジルに来ている。もう79歳になり、体調が良くなかったので今回は見送ろうかと思っていたが、テリオさんから『ぜひ次の世代を連れてきて』と言われて、娘と孫を連れてきました」という。「テリオさん」とは前回、小禄田原100周年式典の実行委員長だった上原テリオさんのことだ。

上原かずえさん、上原勝男さん、上原テリオさん、比嘉留美さん、比嘉皐稀さん(こうき)

 上原勝男さんは、テリオさんの父で昨年6月に亡くなった武夫さんの甥っ子に当たる。「今回もテリオさんの家に4人でお世話になっている」と感謝する。「母県よりもブラジルの方が昔ながらの絆が残っている。沖縄に帰って、こっちの強い絆をどうやって周りに伝えるか考えている」とうなずいた。
 加えて「この交流を途絶えさせてはいけない。向こうに帰ってみんなと相談したい。本当にこちらでは血の濃さを感じる。ここでは祖先とのつながりを大事にして頑張っている。来る度にそれを感じる」としみじみ述べた。
 娘の比嘉留美さん(50)に初来伯の感想を聞くと「本当に来て良かった。親戚のおもてなしに笑ったり泣いたり、感動の連続です。地球の反対側でも親戚なんだなって。武夫さんの仏壇には、来られなかった人の分まで手を合わせて来ました」と感動の面持ちで笑顔を浮かべた。「こちらの皆さんは私よりウチナーグチを使える人が多いのが嬉しかった。母県側として我々は恥ずかしい」とも。
 孫の比嘉皐稀さん(こうき、23歳)は会社から2週間の休みをもらって参加。「親戚の多さ、農業の規模、道路も全てのスケールが大きいことに驚いている。噂には聞いていたが、実際に見てみると感慨深いです」とのこと。

小禄田原字人105周年式典

 20日午前10時から先亡者追悼慰霊法要が始まり、同運営会の高良正幸会長は「105年前の1917年に20家族39人が第1回移民としてサントス港に上陸して以降、多数の方々がブラジルに移民された」と振り返り、先駆者に功績を讃えると同時に現在活躍する同胞に敬意を表した。

挨拶する与儀政晃ブラジル字人会会長

 稲葉ペドロ導師の読経の中で来場者が次々に焼香した。同師は法話で「両親は北海道出身だがあちらには1回しか行ったことがない。でも沖縄には縁あって4回も足を運んだ。このように盛大にお祈りできることを誇りに思います。先駆者の皆さんは今ここに居合わせて皆さんと共にお祝いをしていることでしょう」と述べた。
 11時半から105周年記念祝典となり、与儀政晃ブラジル字人会会長は「パンデミックで1年遅れの開催となったが、これに負けることなく、一団と飛躍し島んちゅ魂を次世代の若者に受け継ぐための105周年祭を皆様とご一緒に開催できたことを大変嬉しく思います」と挨拶した。

照屋マルコス実行委員長

 続いて照屋マルコス同実行委員長も「105年前、オジーの照屋カナとオバーの照屋カマドが初の移民船に乗りました。わずかな荷物を持って、未知の大地に対する大きな不安や心配が心の大部分を占めていたでしょう。(中略)最初の移民達は我々子孫達が彼らの価値観や文化、家族の繋がりやウルクンチュとタバルンチュの団結心を継承するとは、きっと想像していなかったでしょう」等と述べ、協力者全員に感謝した。
 同運営会の高良正幸会長は小禄村の子孫が「現在はブラジルのあらゆる分野にご活躍、ご繁栄されております。これは私たち沖縄字小禄・田原の名誉であり、大きな誇りであります」と称揚した。
 字田原財産管理運営会の上原兼一会長の挨拶を与儀勉(つとむ)さんが「皆様の活躍が、ウチナーンチュへの大きな刺激になります。ウチナー精神を次の世代へと継承していくことは、とても大切なこと。アイデンティティの喪失は沖縄でも進んでいます。ウチナーグチの継承が危うい状況になっています。貴重な文化を守りたいものです」などと代読した。

 その他、字小禄自治会の上原信次会長の挨拶も高良秀幸さんが、ハワイの小禄字人クラブの高良ジェーソン会長の挨拶も代読された。在サンパウロ総領事館の小室千帆首席領事に加え、沖縄県人会の高良律正会長も「私は小禄からの移民の子孫なので、このお祝いに参加できることを誇りに思います。両親が与えてくれた教育、ウチナー精神、年長者への敬意、神への感謝などに心から有り難いと感じています」と述べた。
 85歳以上の高齢者85人の名前が読み上げられ、代表して与儀哲雄さんが謝辞を述べ、鏡開きとなり、最後に与儀昭雄(あけお)元同字人会会長が乾杯の音頭をとって昼食となった。

これから「みるく世」が到来するのか

 アトラクションの冒頭は伝統的な「みるく世果報」(みるくゆがふ)で、仏教と沖縄古来の信仰が合体した神がもたらす平和な世を意味する。福の神みるくがゆっくりと歩く後ろを、子どもたちが太鼓を鳴らしながら着いていく。福の神は舞台に上って、侍による舞の奉納、農民による賑やかでユーモラスな豊作祈願の舞を見て、静かに舞台から去って行った。

みるく世果報の様子

 午後4時過ぎまでに13ものアトラクション、フラダンス・うるまメロディ、サンバ・フレボなども次々に披露され、最後はカチャーシーで幕を閉じた。
 米軍統治の「アメリカ世(ゆー)」の時代(27年間)が終わり、「大和世(やまとゆー)」に戻って昨年は半世紀が過ぎた。台湾有事などの可能性がささやかれる時だけに、次は平和な時代「みるく世」が来てくれることを心底願いたい。
 聞けば、上原テリオさんら20人ほどの有志は、10月の那覇大綱引きの機会に再び母県を訪れる予定だと言う。国籍が異なり言葉も違う2世以降の世代になっても、これほど緊密な関係を保ち続ける会が他にあるだろうか――と取材を終えた後ついつい考え込んでしまった。(深)

 

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