小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=17

 深さ十五メートルの井戸は、綱で巻き取り式になっており、つるべは石油の空き缶がついている。缶に水が入ると、把手を廻し綱を巻き取り棒に絡ませて引き上げるのである。水は新鮮で、生き物のように揺れながら上がってくる。それを二つのバケツに移し、一つは屋外の洗面用に備え、他は炊事用として家の中に持ちこむ。
 炊事場では、火にかけておいた薬缶が沸騰していた。食卓の角に取り付けた小型のコーヒー挽き機に豆をいれ、手廻しで粉末にする。それを小さな布袋に移し、上から熱湯をかけて濾すのだ。律子はその一杯を持って、入植早々、アメーバで寝込んでいる母親の枕もとへ運んだ。
「持ってこんかて、今朝は起きられそうやわ」
「無理せんかてええがな」
「すまんな、ブラジルへ来てひと頑張りしようと思ってたのに」
「律子が二人分働くさかい、心配いらへんが」
「早よう仕事ができるようにならんと、借金ばかり増えるものな」
 再び角ラッパが鳴った。コーヒー園への出発を告げる六時の合図だ。
「これじゃ、まるで軍隊式やな」
 軍隊生活に経験のある田倉は、そう言って跳ね起きた。昨夜脱ぎ捨てた汗臭い仕事着を着込み、神戸の移民収容所近くで求めたカーキ色のズボンを穿き、巻ゲートルに地下足袋で身を固めた。
 朝のコーヒーはまだ慣れてないので、冷たい飯に茶をかけてかきこんだ。太鼓型の水樽をコーヒー採集用の袋に入れて背負った。
「これは土方の格好や」
 と、つぶやきながら田倉は、日焼けした顔を、寝ているはぎに向けた。それが田倉の妻への朝の挨拶であった。
「おかあちゃん、起きるんじゃないよ。お昼ご飯は作ってあるし、何か用事があれば浩二にやらしたらええ、もう十やもん。少しぐらいの手伝いはできるわ。今日の仕事場は十一号区域だからね」
 てきぱきと、律子は言った。

 この国の七月、朝の六時はまだ暗い。東西に十軒並んでいるコロノ(労働者)住宅からはコーヒー採集用具を持った労働者が次々と現われ、律子の家の前から北に折れて歩いて行く。道は向かいのコーヒー園に続いていた。コーヒー栽培に適した土地は海抜四百メートル以上で、低地は牧場か雑作地にあてられていた。

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