シリーズ:境界を耕す日系人 第1回 スマート農業と教育で農村部を変える鐙野獅珠雄ヴィニシウスさん 松田真希子(金沢大学)

千葉幕張メッセで開かれた農業ウイークでナノバブル水素水の装置の導入について検討するショーンさんと鐙野さん(2022年10月)

 本シリーズは日本でブラジルの日系人の言語文化を研究する筆者が、研究活動の過程で出会った挑戦者たちを紹介する試みである。
 世界最大の日系人人口を抱えるブラジルでは日本語・日本文化を学ぶ意義の問い直しが起こっている。日系がブラジルにおいて過去のカテゴリーになりつつある。筆者は100年以上にわたり継承されてきたブラジルの中の日本語・日本文化が、単純にブラジルの言語文化によって上書きされることは大きな文化的な損失と考える。
 日系文化は、ブラジルの移民文化の中で創造的に統合され、未来へ繋ぐことが望ましい。筆者は、ブラジルでの研究活動の過程で、日本語・日本文化をレパートリーの一つとして生きる日系人が、日本や世界と繋がり、創造的に世界を耕している様子を知る機会が多くあった。仮にそうした文化的統合を「境界を耕す」と呼ぶならば、こうした「境界を耕す」人々を本紙読者と共有することは、未来へと繋がるブラジル日系社会デザインを検討する上で意義があることと考える。

第1回:スマート農業と教育で農村部を変える:鐙野獅珠雄ヴィニシウス(Vinícius Shizuo Abuno)さん

 2022年10月、千葉県の幕張メッセで開催された農業ウイークの会場に、ブラジルで農業企業Nativo Agrícolaを営む鐙野獅珠雄ヴィニシウス(Vinícius Shizuo Abuno)さん(28歳)とショーン・ヴァウテル・ヴァレンテ(SEAN VALTER VALENTE)さん(28歳)の姿があった。
 スマート農業の製品ブースで鐙野さんが興味を持ったのはナノバブル水素水生成機だ。「普通のマイクロバブルだと簡単に酸素が失われちゃうんですよ。それで日本側が開発した装置を水耕栽培で使われる水とかに使うことで、もっと成長力を高くさせるのが目的なんですよ」
 鐙野さんは日本語母語話者でも瞬時には理解できない農業用語を自在に操り、筆者に説明する。鐙野さんは日本で開発された農業技術はまだまだブラジルに導入されていないという。日本の最先端農業とブラジルの農業をつなぐことにビジネスチャンスがあると鐙野さんは考えている。
 鐙野さんはサンパウロ州から150キロメートル離れた小さな町、ピラール・ド・スールで生まれた日系3世だ。家業は花や野菜を育てる農家で、お父さんの直樹さんはサンパウロ大学農学部を卒業した実業家、お母さんも花の育種を成功させた実績がある。会社は小規模ながら、バイオテクノロジーを駆使した農業を売りにしており、最近はお父さんと共に作った本ワサビの植物工場がブラジルで最初に安定供給を成功したとニュースになった。

両親の農業への情熱に感化され地元に残る

 鐙野さんは子どもの時、ピラール・ド・スール日本語学校で日本語を学んだ。家庭内や地域内で日本語がほとんど使用されなくとも勉強に励んだ。「中途半端な言語能力はゼロと等しい」と父親に言われ、日本語能力試験N1に合格した。サンパウロ大学農学部を卒業し、家業を継いで代表取締役になって数年だが、得意の日本語力と英語力を駆使し日本の種苗会社と提携し、世界を舞台に最先端農業ビジネスに取り組んでいる。日本の農業雑誌を定期購入し、専門知識を日本語でも吸収している。
 3人兄弟の末っ子の鐙野さんが家業を継ごうと考えたのは、高校生の頃だ。上の兄弟2人は農業に関心を示さず、大学進学を機にサンパウロの首都圏に移住した。農村部の日系の子どもで、学業成績が優秀であれば、多くの場合都市部や国外先進地域への移住を試みる。
 しかし鐙野さんは地元に残り、農家を継ぐ選択をした。その理由はご両親の農業への情熱に感化されたこと、そして地元で社会的インパクトの大きい仕事をしたいと思ったからだ。
 鐙野さんはサンパウロ大学を卒業して数年後、同級生だったショーンさんを誘った。今はショーンさんが営業を担当し、鐙野さんが開発や事業全体を統括する。ショーンさん自身も移民の背景を持つ。ブラジル生まれのお母さんがアメリカに留学したときに、ポルトガル系アメリカ人のお父さんと結婚し、ショーンさんが生まれた。
 ショーンさんは幼少期にブラジルに移住してサンパウロの都市部で育ったが、月の半分はお母さんのご両親が住むファゼンダ(農村部)で過ごす生活だった。そのためどこかに農業への親近感があり、大学の専門を選ぶ時、迷った末に農学部に進学を決めた。卒業後はサンパウロ市内の大手企業で働いたが、鐙野さんとの最先端技術をいかした高付加価値の農業事業に可能性を感じ、ピラール・ド・スールにやってきた。

独特の経営手腕で、労働者と共に成長

 鐙野さんが経営する会社ではいくつかのユニークな取り組みがある。その中の一つが従業員への教育活動だ。週に1度、就業時間中に1時間ほどブラジル人のコンサルタントを講師に招き教育活動を行っている。現地の農作業を担うワーカー(労働者)の多くは十分な教育を受けていないという。
 そのため、トイレの使い方から、日本的な経営(5S)も教える。もちろん鐙野さんたち経営陣も共に学ぶ。鐙野さんはワーカーを教育することでワーカーの家族にもいい影響があると考えている。「農村部に住むワーカーの親戚には十分な教育を受けていない人が多い。そして麻薬や暴力事件などで服役中の人がいることも珍しくない。ワーカーに安定した仕事を提供し、教育の機会を提供することは家族メンバーにもいい影響を与える。ワーカーを単純な労働力と考えるのではなく、大切な家族であり仲間だと考え、お金がかかっても教育していくことが長期的にはブラジル社会へのいいインパクトを与える」という。
 さらに、「ブラジルの農家の多くは計画的に行動することを知らない。需要と供給の関係も全く意識していない。その時に周りで高い値段で売れた農作物があったら、みんな一斉にその農作物を作り始める。でも作物が実って市場に出したら、商品がダブついて全然高く買ってもらない。そんな単純な予想もできないんだ」と語る。鐙野さんは農家に長期的な戦略に立って計画的に農作物を作る文化が共有されれば、もっとブラジルの農業は良くなると考える。
 高付加価値の商品づくりも、長期的な展望に立った戦略だ。「ブラジルはまだ貧しいので、高くていい商品が売れにくい。農作物も安くて大量に作られたものが売れる。しかし、安くてよくないものを作り続けるのではなく、少なくてもいいものが選ばれる時代を自分達で呼び寄せなければ世界は変わらないままだ。その時代に向けて技術開発を進めたい」という。
 日系3世の鐙野さんとアメリカ系移民2世のショーンさんという、移民属性をもつ二人は、幼少期からブラジルではない世界との対比の中で生きてきた。移民属性に価値を見出さず、現地社会の一員として育てば、これほどまでに問題意識が醸成されなかったのではないだろうか。
 そして、日系だけに内閉せず、現地住民や他の移民属性の若者との交流から学びを得ていることも多い。日本や世界をブラジル農村部に繋ぎ、農村部から教育レベルを底上げし、スマート農業で長期的な豊かさを目指す。こうした挑戦はブラジルに限らず、世界中の農村部における貴重な事例ではないだろうか。
 移民の国ブラジルから発信される若者チームの変革に期待したい。

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