連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第70話

 ミゲル君は小柄でおとなしく、日本語は話さないが、聴く事はできて、何とか理解は出来るようである。彼の両親はとても日本的な方である。
 披露宴は新しく出来たばかりのバルゼン・グランデ文化協会で催された。コチア青年の友人、桑鶴忠君が、始めたばかりの仕出しの仕事として、大変なご馳走を作ってくれ人気を取った。私達夫婦にとって、初めての祭り事であり、戸惑いもあったけれど、当時としては立派な結婚式であった。
 るり子二十三才、ミゲル二十五才であった。
 ミゲル君はすでに、ブラジル銀行で働いていたが、るり子も結婚してすぐ、ブラジル銀行の女房役でカイシャ・エコノミカ・フェデラルへの入社が決まり、新夫婦して国家公務員となりすばらしい門出となった。その次の年の一九八四年六月二十八日に長女、今西レイナが生まれた。一九八七年二月一八日には次女の今西マリ。又、次の年の一九八八年七月四日には三女の今西カミーラが生まれ、女の子三人のみで子づくりを終えている。
 長女、レイナが生まれて間もなく、夫君、ミゲル君に伯銀からブラジルの東北地方への転勤辞令が出た。そのような時には、妻の勤めるカイシャ・エコノミカ・フェデラルと伯銀の両銀行の支店がある場所を希望できる制度があり、二人はアラゴアス州の州都マセイオーから三〇〇㌔内部の町、サンターナ・デ・イパネーマ市への転勤となった。そこで、三ヵ年過ごすことになった訳である。
 一九八七年の初めに、サンパウロ市の西方一〇〇㌔の都市、ソロカバ市に戻って来て、それより停年まで、どこにも転勤はしていない。二十五年間、ソロカバの町で落ち着いて働き、生活を楽しんでいる。
 長男の悟は一九七九年の十二月にサンロッケの高校を卒業して、サンパウロ大学(USP)の工科を受験、て同時にUNESPも受験したけれど失敗していた。ちょうどその頃、日本の宮崎県が在ブラジルの県人子弟を対象に県費技術研修生の制度を始めた。毎年七月から次年の三月までの九ヶ月間の研修である。一九八〇年三月に私達が初訪日する直前に悟と話し合って、工科志望だったけれど、当時の情勢からみて、農業それも花卉栽培で身をたてたらどうかと、説得して、彼も余り抵抗もせず、花作りに針路を変えたのである。
 そこで農業技術研修生にすぐに申し込み手続きをして、ちょうど私達が訪日して、宮崎の県庁を訪れた時、農政水産部でその合格の通知を受けたのであった。そうして、悟は宮崎の佐土原農業試験場の花卉部で、一九八〇年七月から、翌年の三月までの九ヶ月間、高八重主任の下で花の勉強をして帰って来た。宮崎での研修は皆さんに親切にして頂いて、いい想い出をつくったようであった。

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