連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第57話

 その後、知足の生活態度は常軌を逸したもので、私と母が頑張って守りぬいた八反歩位の農地も売却してしまい、それも使い果たし、酒に溺れて最後にはタバコの不始末で母や自分の娘達の住んでいた家まで焼失してしまったのである。そのあげく、遂に体調を崩して死んでしまった。母はそれでも善意に受けとめて知足は黒木家の因縁を一身にかついで死んでいった。つまり黒木家の為に犠牲になったんだよ、と言っていた。家を失った母は山岡会長のすすめで三人の孫と、それに末っ子の七海を連れて曽根の山岡さんの教会でお世話になることになった。そこで何年位お世話になったのか、私は良く知らないのだけれど、知足兄が四十二才の若さで亡くなったのが昭和四十六年四月一八日(一九七一年)である。その頃、私達もブラジルで破産して、泥沼の中での生活から何とか這い出ようともがいていた時代であった。母達は曽根の山岡家にお世話になっている期間に末の妹、七海は同町内の天理教、日の富分教会の黒木昭征君と結婚した。母が一九七五年の正月にブラジルに来たのは多分、その曽根にお世話になっている時であったのであろう。
 一九七五年前後のその頃、母ぬいの孫娘三人の中、長姉のともえはもうすでに高校を卒えて、天理教のおじばの天理教憩いの園病院の看護士養成学校で働きながら学んでいた。すべて山岡会長のお世話で、皆で天理のおじばに行こうと言うことで、母ぬいはおじばの此花詰所で手伝いをして、ともえは病院で働きながら学んでいた。この様にして、母とその孫娘三人の天理での生活が始まった。おじば天理での生活は心に落ちつきが生まれ、もっと安定した様である。その数年後の、多分一九七八年頃、ともえももう立派な看護士となり、年齢も二十四才位になっていたと思う。同じ天理教の消費組合で働いていた水永享(みずながとうる)君と結婚した。水永君は宮崎県日向市の隣町、門川町の出身で、彼の両親も天理教の信者であり、ともえとの結婚についても、年老いた母と同居することに同意してくれた。
 私達が初めて日本に帰郷した一九八〇年三月には、二人の間に民江と言う可愛い女の子が生まれていた。水永享君は実に思いやりのある立派な青年であった。その時の彼達の住所は天理市勾田町天南荘に借家して母達も同居していた。母は毎日そこから詰所まで手押車を押して通っていたそうである。

    天理のおじばでの一週間(一九八〇年)

 三月十九日(水) 私達二人の宿泊は天理教本殿の三〇〇㍍位北側にある此花詰所である。その日の午後から早速、別席運びが始まる。別席とは天理教信者になるための心得やおてふり等の勉強会で、この様なお話を九回運べは〈よふぼく〉つまり天理教の信者としての親様のおさづけを頂くことになる。

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