連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第14話

 私のすぐ下の弟、三美は私と三つ違いで、貧乏ながらも学業に頑張っていて、私が二十才の時は一七才の高校二年であった。その下の四男の巳知治は私より七つ下で、十三才の中学一年生であった。巳知治は子供の頃から夏の日焼けのせいもあり、色が黒く、皆から祖父の菊次郎に似ているとよく言われたものだ。裸で釣竿を手に持って、近くの堀り川に行って、よくハゼを釣って下げて帰って来ていたのを思い出す。
 末っ子の妹、七海は終戦の年の昭和二十年二月の生まれで、戦中なのか、女の子に七つの海で活躍する事を期待してか、七海と名付けた。だから、七海は私より十一才の年下になり、当時九才であった。
 終戦後まもなく、生活が苦しく、母一人で苦労している時、私は小学校の六年生の頃だっただろうか、私は母の苦労をみかねて、「お母さん、七海が五才になったら大分楽になるだろうなー」と母を慰めて、母を感涙させた事があったね、と後々私が訪日する度に懐かしんでみせたものであった。
 終戦後間もない頃、長女の純子が出産のために宮崎の我が家に一時帰省していたことがある。長男、晋一はもう生まれて二才で、その子を連れての帰省であった。生まれたのは長女の孝子であった。
純子の夫、入口晋は戦中偵察飛行機乗りで、新婚生活は熊本、おりんおばさんの二階に世帯を持っていた。その後、佐賀の神崎町志波屋の入口家の旧家で生活を始めることになり、姑の下で苦労したことの話を聞いたことがある。
 時は流れて、私の高校生活も半ばを過ぎ、私は相変わらず小さな農業と港の仕事をやっていたけど、生活は苦しく主食は唐いもが主体で、米の飯は夢の夢であった。私はそれでも食に対する執念が強く、せめて米の飯の食える百姓をしたいと農業の規模拡大を考えていた。でも、今の日知屋ではその可能性がないと考えていた頃、富島町の財光寺の飛行場跡に開拓地が造成されると聞いて、そこに入植を申し込んでみた。でも、入植までにはまだ期間があるという時期で、その頃、港造成の仕事も古い船が使用不可能になったりして、何か次のステップを考えていた頃でもあった。
 父、弥吉は農業委員から今度は町会議員に立候補して、その選挙のビラ張りに私も自転車でずい分歩いたものであった。その結果は、父は少しの差で落選した。
 昭和二十七~二十八年頃は自衛隊の前身は警察予備隊と言っていた頃で、私の友人達もその方に進む者が何人もいた。高給を貰って、二年後にはかなりの退職金が貰えると言う有利な条件であったので、私も少し気を引かれたこともあった。また、和歌山県にはヤクルトの会社が、仕事をしながら勉強が出来る条件を出して、場合によっては、そこで働きながら大学まで出てみようかと考えたこともある。

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