連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第35話

 子供が生まれてからの美佐子の仕事は大変だった。朝、授乳後、ベッドに寝かせて、仕事に出る。九時半の昼食に帰って来るのに、家の近くに来て、赤ん坊の泣き声を聞くと安心する。また、昼から仕事に出る。子供が這い回る様になると、ベッドの周りを板で囲んで子供は泣き疲れて眠っていた。こんな毎日だった。

    その頃の森田農場

 私達が独立して、森田家を出てから森田農場にはたくさんの戦後移住者の出入りがあった。独身青年が数人出入りしたけど、それ以上に家族移民がたくさん配耕されて来て、また出て行った。あんな人もいたなぁーと顔はおぼろげながら想い出しても名前は忘れてしまっている。あの頃の人で、名前を想い出せるのは、今西実君とそのいとこの今西さんの家族。それに福岡出身の上村さん兄弟の二家族。この人達もしばらくいたけど半年もせずに退耕して行った。この様に仕事はたくさんあるのに、すぐ出て行かれてはすぐ次の人を雇わねば仕事が止まる。という様な情況で、その後も何家族の出入りがあった様である。その頃の私達は自分の仕事に懸命で余り森田農場へ行く事もなく過ごしていたので、今それをよく覚えていない。
 ただ、その頃の一番大きな出来事は森田家の長女、幸子さんの結婚であった。森田さんと同じ、高知県出身の高達さんが隣町のイビウーナで大きな養鶏をしていた。そこに高知県出身の二人のコチア青年が働いていた。一人は黙りん坊、もう一人はおしゃべりの性格であった。森田と高達のパトロンが話し合って、どちらを幸子さんの婿にするかと言うことになり、森田さんはやはりおしゃべりの方が良いと言うことで、秋山敬一君を選んだ。勿論、本人同士の見合いはあったのだけど、お互いに気が合って、結婚の運びとなり、一九六〇年の正月早々、これも高知県出身の名神(みょうじん)さん夫婦の仲人で挙式が行われた。長雨の降る日であった。森田農場の倉庫の壁土を塗り直して、二〇〇人位のお祝い客で一杯になった。私達が見た当時の結婚式では一番派手なお祝いであった。
 森田家の長男、武男は当時まだ十三才の中学生だったので、新郎の秋山君は森田家の中継ぎ養子と言う立場になった。森田農場はこれで仕事の陣容が決まったのである。秋山君も良く頑張った。非常にあけっぴろげで、おしゃべりで、朗らかそうだった。やはり高知人らしいイゴッソウの性格を持っていた。自分の言い出したことは他と余り妥協しないところがあって、それが災いして、森田農場に次々と配耕されて来た戦後移住者と折り合いがうまく行かなかったようだ。私の同僚の谷脇さん一家も私達より一年遅れで私達の近くのトニッコの土地を借地して私達と同じようにバタタ作りで独立した。その後、私たちのバタタ作りはこの谷脇さん家族と助け合いながら進めて行くことになる。

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