連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第25話

 この様に三人のコチア青年が八十人位の二世たちの中で農事研修を中心にブラジルの農村で生きていくための色々な研修を受けた。多くの二世の友達もできた。女友達とも話す機会もありダンスも少し覚えた。その頃の二世達もいくつかのタイプがあって、よく日本語を話す人、ほとんど日本語は話さず、それでも聞き分ける事の出来るタイプの人、その中間の人、と様々いたけど、その頃の講習のほとんどは日本語での授業が主体なので、日本語の理解度の低い人はだいぶ苦労していたようだ。でも、反対に農業機械のメカニズムの説明などブラジル語が多く、私たちコチア青年は苦労した。
 この一ヶ月間、冬の乾期だと言うのに割合雨が多かった。二回ほど研修旅行があって、その帰り道が悪く、バスが泥んこにはまって動けなくなり、皆、歩いて講習所にたどり着いた事もあった。
 この講習会で私達コチア青年とより仲良くなったのはやはり日本語の達者な連中で、講習が終わったあとも何年も便りする二世もいた。また、講習所で仲良く話していると、私達のバルゼン・グランデ出身の子弟の多いこと。多分、十人位いたのではないか。この様に楽しかった一ヶ月の講習会は余り心配する問題も起きずに無事終了し、修了証書をもらって又森田農場に帰って来た。
 この様なことがあって、森田さんはコチア青年に理解あるパトロンと言うことが一般に知られるようになった。私も胸を張って森田さんがコチア青年の気持ちをよく理解して下さる人だと皆にも説明した。森田さんは私達が働く様になって、自分の役割に時間的余裕が出来て来ると、今度はバルゼン・グランデの役員の仕事を受け持つ事が多くなり、また、自分達で数年前に起業したカエテ印ぶどう酒工場の重役の仕事など、農場外の仕事が多くなる。いきおい農場の仕事は千代子夫人(ママイと呼んでいた)が采配をする様になり、毎朝、仕事始めには私達とその日の仕事の話し合いをしたものであった。
 私は健康面ではここでの四年間、それ程迷惑はかけなかったけど、唯一度だけここに来て間もない頃、蓄膿症で再手術をしたことがある。十五才の頃、日本で一度手術していて、今回は別の側の手術であった。その後、蓄膿症で悩む事はなくなった。

  バルゼン・グランデ倉庫とコチア産業組合

 バルゼン・グランデ部落はコチア産業組合の中の生産組織体としては一番古い部落の一つで、そこに生産、集荷、販売、購買、信用などの業務を持った倉庫が設立され、倉庫主任を中心に従業員が働き、組合員の生産物をより良い値段で売り、また、生産資材を共同購入でより安く仕入れ、集荷もCTC5と言う運送組織があって、その物流を仕切っていた。

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