連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第54話

始めての「ふるさと訪問」(慧四十五才・美佐子四十一才)

 私が二十五年ぶり、美佐子が二十一年ぶりの訪日であり、ふるさとを出る時「五年か十年で帰って来るよ」と言って、皆と別れて来たけれど、ブラジルの現実の厳しさに、この日までとうと実現出来なかった。私はどうであれ、愛妻、美佐子だけでも、より早い時期にふるさとの親兄弟姉妹に会いに帰させたい。そんな気持ちがずっと私の胸の中にあった。幸いこの度は二人一緒のふるさとへの旅が実現できる。言葉に表せない喜びが胸を突き上げる。日本へも手紙を出した。初めての飛行機での長旅とあって、その準備にも万全を期した。
 新しい旅券を作るのにブラジル入国時の昔の旅券には私はKEI KUROGIとなっているのに美佐子の旅券はMISAKO KUROKIとなっており、夫婦であるのに苗字が違うと言うので、サンパウロ総領事館で、「今後、美佐子は KUROKIを一切使用せず、KUROGIに改めます」と言う始末書にサインさせられた。
 旅行社は当時日系社会で一番有名であった、ウニベルツール旅行社にお願いした。旅費は一人日本往復一八一九ドル、二人で三六三八ドル。それに諸雑費など、日本の人に迷惑かけてはいけないとの思いから、旅費の倍以上を別に持参した。出発は三月一三日である。
 留守中の我が家の仕事は松原さんに菊花の植付け、手入れ、出荷までカマラーダを使って頑張ってくれるよう頼み、週二回の出荷は巳知治にコンビ車で日比野さんの家まで届けてもらい、シチオに来た時に、シチオの仕事もちょっと気を配ってくれる様にお願いしておいた。子供達は皆、それぞれ自分の事は自分で出来る年頃になっており、余り案ずることはなかった。私達の出発前に、悟が大学入試に失敗したのを機会に、その年から始まった、宮崎県技術研修員受入制度を利用して、それに応募してみないか、との話があり、早速在伯宮崎県人会の壱岐会長を通じて申し込みをしておいた。
 いよいよ出発の日が来た。サンパウロ国際空港は、五年前に母ぬいが到着したカンピーナスのビラコッポス空港から、サンパウロ市郊外のグアルーリョス市の新装なったクンビッカ空港に移り、そこからの旅立ちである。荷物は大きなトランク二個と手荷物で、弟、巳知治と子供達が見送ってくれた。
 窓際に席をとり、生まれて始めての飛行機の旅、すべてが初体験の旅の連続。鶴マークの日本航空機、乗った瞬間から日本を感じた。美人のスチュワーデスの優しい接待に感動した。

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