連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第66話

 次の日の七月二十七日にはコチア青年移住二十五周年記念式典が催された。
 八月十七日には、末っ子の絵理子の十五才の誕生祝いを皆を招待して催した。
 八月二十日には、美佐子はポッソス・デ・カルダスに旅行。私は八月二十七日、リオ・デ・ジャネイロ州のカーボ・フリーオに魚釣りの旅を楽しんだ。八月二十九日には、次女の恵美が以前から耳の聞こえが悪く、医者に行って、精密検査をうけた。
 また、私の両眼に『ぜい肉』と言って、にごった膜が瞳にかぶさって来たので、さし当り、左の眼のみ、削る手術(ラスパージェン)をうけた。この病気は日本からブラジルにやって来て、強い太陽の光の中で生活していると。その強さに刺激されて起こるものらしい。しかし、この手術が失敗して、その後、左右の眼の映像の焦点が合わず、夜の運転で眼が疲れて来ると、前を走る車が二つに見え、中間の線がVの字になって見えたり、苦労することになった。十二月になると、美佐子は日本で彼女の姉、裕子が車の運転をしているのに刺激を受け、自分でも免許を取った。
 年末には末っ子の絵理子はブラジル語学校も日本語学校も共に八年生を卒業した。

     一九八一年から一九八七年までの出来事

 一九八一年から一九八七年の七年間の記録が殆どない。大きな出来事は、少しは思い出すが、それもおぼろげなものである。その間の旅行記はその時に記録しているので、それが唯一の記録の手がかりである。
 その記録のない七年間の出来事を思い出すままにたどってみよう。
 一九八〇年代は、ブラジルは「失われた年代」とあとで評された位、政治経済も迷路の中を歩いた様な発展のない時代であった。非常に高率なインフレに見舞われ、幾度かの価値修正(デノミネーション)も行った。七○年代に続々と対伯進出した日本企業も、八○年代終わり頃には日本のバブル景気もあって、反対に続々と日本に引き上げて行った。ブラジルの農業界も非常に苦しい経営に四苦八苦の期間であったが、この期間に奥地のセラード開発が軌道に乗り、その後の九○年代の発展へと続くのであるが、一方、大都市近郊の農業は苦しく、特に野菜作りは苦しかったようである。

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