連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第40話

    新しい自分の土地に家を建てる、移転、そして三女、ルーシー絵理子の誕生

 計画通り新しい自分たちの土地に、待望の我が家を建て始めた。 
 勿論、余裕の金などないので屋根の骨組みは丸いユーカリ材を使い、仕事は私と巳知治が頑張った。レンガは泥土を練って積み上げた。余りお金を使わずに建てた八〇㎡の家は、後でサーラ(リビング)など継ぎ足した。この家は四十年を経過した今でも余り傷まず立派に建っている。
 一九六五年七月二十三日、私達の四人目の赤ん坊、三女の誕生であった。初めてブラジルの名前を入れて、ルーシー絵理子と名づけた。次女の恵美と同じくCACの病院での出産であった。四kgを越す大きな赤ん坊で帝王切開であった。私達はこれで産児制限をする事を話し合った。
 子供は四人が理想的だと思っていた、ブラジルで頑張ろうと言うコチア青年の家族で二人の子供は少な過ぎると思っていた。子作りでも目標達成である。子供達のパドリーニョ(名付親)は悟と恵美は地主のイリネウ夫婦、絵理子はモアシール・デ・カマルゴ夫婦である。

    営農の失敗で窮地に立つ

 一九六三年頃、森田さんのところで働いて来た私の後輩の森田晃君や今西君、それに森田家の中継ぎ養子の秋山君も含めて一緒に独立営農に移ることになった。森田さんが日本の拓殖基金の融資も考えに入れてカングエーラ区のグヮイケールと言う地主の土地を一括購入して、それを八人の青年に分割入植させた。これが森田植民地である。
 森田さんや私達や谷脇さんはそこから六~八kmも離れていたけれど、組合関係の区割りで一応カングエーラ区と呼んで月に一回区会を開いていた。
 その頃は皆、独立間もない頃であり、そのほとんどが組合やブラジル銀行の融資で営農していた。又、当時は組合も伯銀も市中銀行も農業者へ簡単に貸し出していた。利息も制度融資はインフレ以下の安さで、営農融資も農業機械購入へも簡単に借りられたので、悪知恵を持つ農業者は伯銀から利子の安い農業融資を借りて、市中銀行の利子の高い定期に預金してその利ざやでもうける者さえいた。
 私も含めてカングエーラの仲間もこの様な悪に走る者はいなかったけど、安易に伯銀の融資をかりた。もっと自己資金での営農を考えるべきだったのに。

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