連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第33話

 でも、それ以前から美佐子はつわりがひどく、食べたものを吐いたりして苦労していた。私はそうした女性の生理について、本当に無知で、つわりが何なのかも知らなかった。美佐子も気がつかず、それを森田のママイに話したら、それは一番嬉しいことで、子供が生まれることを知らされた。それでも美佐子は頑張った。
 危惧していたが、案の定、バタタに病気が入った。ベト病である。一日で急に広がるおそれがある。背負い式の消毒機で死に物狂いに何回も何回もかけた。かけたらすぐに雨が降って来る。又かける。昼間は忙しいので消毒の水汲みは夜に行う。畑の中央に二〇〇㍑のタンボール(ドラム缶)を三つ四つ並べて、天秤棒で二〇㍑のバケツを前後にかついで一度に四〇㍑を一〇〇㍍位、下の川からかつぎ上げるのである。つまり、八〇〇㍑のタンボールを満たすには二十回上下せねばならない。天秤を担ぐ仕事は日本で慣れた仕事であったけど、真っ暗な夜の仕事であれば楽ではない。美佐子は石油ランプで前を明るくして、そこを私が四〇㍑の水をかついで行く。バタタの病気を何としてでもくい止めねばと、雨の降る日も陽の暑い時も、毎日消毒が続いた。ズボンはびしょ濡れ、消毒剤のマンザーテで足は真っ赤に焼けて、皮がむけだす。それでも二週間位で何とか危機は脱した。ベト病はあまり広がらずに済んだ。
 バタタの生育は非常によく出来た。五月に入ったらバタタは茎葉(けいよう)が黄色に枯れ始め、五月中旬を過ぎて、いも掘りが始まった。芋ほりもカマラーダに一タレファいくらで請けさせるのである。彼等がエンシャーダで掘り出して、バンデイラ(山積み)にしたものを大きさによって三つの等級に分け、そして傷のついたものや虫に食われたものなどの劣等品は又仕分けして、私達が袋詰めするのである。それを小屋に運んで、バランサ(秤)で六〇kgを一袋として口を縫って、上の方に等級と組合員番号をインクで記して等級別に並べて、組合のカミニョンが積みに来るのを待つのである。組合のカミニョンは普通、一〇〇俵から一五〇俵位積むので、いつも運転手と助手とで動いている。カミニョンに積む時は助手の頭に六〇Kgの俵を私が一方の端をつかんで上げてやらねばならない。続けざまに休まずにすると重労働である。時には助手が来ない時があって、そんな時、カマラーダを連れてきて、今度は私が頭に乗せてカミニョンにほうり上げることになる。
 この様に独立当時は重労働の毎日であった。お陰で六月の始めに、芋堀も終わり、半アルケールで四〇〇俵を出荷することが出来た。値段もエキストラで一コントレース(一〇〇〇クルゼイロス)と良くて、組合から借りた融資を全部払って、この八月に植える種芋が残った。

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