特別寄稿=ブラジルのラジオ開始100周年=そして「日本番組」開始90周年=東京在住  平原哲也

昔のラジオ受信機(参考写真)

 ブラジルの日系移民史を語るうえで、ラジオの日本語放送は欠くことのできないテーマである。サンパウロ市をはじめとする各地で日本語放送が盛んになったのは第2次世界大戦後のことである。
 種々制限されていた日本語の使用が徐々に解禁されてきたことに伴うもので、特に1952年以降は雨後の筍のように各地で日本語放送が生まれた。ラジオ局が出来れば日本語放送が始まる……このように多少大げさに表現されるほどもてはやされたのもこの頃である。
 しかし、日本への出稼ぎやNHKの衛星放送開始をはじめとする時代の変化に伴い、1990年代から日本語放送の数は年を経るごとに減少して行った。パラナ州アサイで約30年間もの長きにわたり地域に根差した番組を送り続けてきた佐々木美代子が担当する「モメント・オリエンタル」も2020年に幕を下ろした。
 筆者の知る限りでは、現在サンパウロで行われているラジオTVニッケイが唯一のラジオ日本語放送となってしまった。日本語を使用する人口が減っている中で、時代の流れに逆らうことはできない。
 ブラジルでラジオ放送が公式に開始されたのはリオデジャネイロのラジオ・ソシエダーデが開局した1922年9月7日とされている。今年はラジオ放送開始100周年に当たる。何を以って「初のラジオ放送」というのかはいろいろな考え方があり、レシーフェのラジオ・クルービ・デ・ペルナンブーコはそれよりも早い1919年4月6日に放送を行ったと主張している。

ドン・ペドロ2世公園にあったラジオ・エドゥカドーラのレターヘッド(1926年)

 サンパウロではラジオ・エドゥカドーラ・パウリスタが1923年に放送を始めたのを皮切りに、ラジオ・サンパウロ、ラジオ・クルゼイロ・ド・スール、ラジオ・レコールと続いた。
 そのサンパウロ初のラジオ局で日本語放送のルーツともいうべき「日本番組」(O Programa Japonês)が90年前の今日(1932年7月7日)放送された。日本語放送と呼ぶには分不相応であるが、日本語メッセージ及び日本音楽が含まれる番組が初めてラジオの電波に載せられたことは日本人移民史に刻まれるべきである。
 この番組を企画したのは当時サンパウロに滞在中の東北帝国大学講師の田中館秀三博士である。田中館博士は地質学を専門とし、日本の外務省、拓務省、農林省の嘱託を受けブラジルの地質研究を行うために1932年3月にサンパウロ市に着き、約半年間ブラジルに滞在した。
 博士はかねてよりブラジルへの移民に関心を有し、植民地理学の研究に従事して来た。1933年にサンパウロ市近郊のサン・ミゲル耕地が売り出された時にはその宣伝文句に博士の御墨付が盛り込まれた。博士は本業の学問研究のため州内はもとより北パラナやアマゾン地方にも足を延ばす傍ら、日伯親善のための文化交流を積極的に推進した。その企画の一つがこのラジオ番組であった。
 1932年7月7日の午後9時10分から10時まで、サンパウロのラジオ・エドゥカドーラ・パウリスタで、次のような内容の番組が放送された。
1. 挨拶(ポルトガル語) 矢崎節夫サンパウロ市日本人会長
2. ブラジルの皆様へ(日本語)鈴木章子嬢
3. 講演(ポルトガル語) 田中館秀三博士
4. 童謡「虫の楽隊」「流れ星」「照々坊頭」 大正小学校生徒
5. 三絃演奏(2曲) 内畑嬢、明嬢
6. 三絃・尺八合奏  内畑嬢、明嬢、明夢庵氏
7. 講演「美しい日本」(ポルトガル語)ロドリーゲス女史
 このうち、日本語が使用されたのは「ブラジルの皆様へ」だけであった。これは日本の松平夫人が書いたメッセージを鈴木章子が代読したものとのことであるが、同夫人についての情報は書かれていない。1927年12月に日本婦人海外協会の設立に関わり、会長を務めた教育家の松平俊子ではないかと考える。ちなみに俊子は秩父宮妃殿下勢津子の叔母に当たる人物でもある。
 三絃(三味線)を弾いたのは当時日本人社会の催し物で活躍していた内畑きみこ(内幡という表記もある)及び明さく子と思われる。現地紙では三味線は日本のバイオリン、尺八は竹のフルートと紹介されている。
 日系社会におけるこの番組の評判は、あまり芳しいものではない。内容がどうのこうのというのではなく、そもそもほとんど誰も聞いていなかったというのである。
 当時の日本新聞(1933年3月29日)はこの状況を次のように伝えている。「以前田中館氏が矢崎日会長と共にラヂオを通じて日伯親善放送をやった事があったそうであるが、聞いて見ると日本人でそれを知ってゐた者は殆んど居ぬ。後になってやったそうだねなどゝ云ふ評判があったに過ぎない」
 当日の現地紙や関係者からある程度の情報が口コミで流れたとは言え、多くの人はこの番組について邦字新聞で事後に知らされたものと思われる。何よりも日本人社会ではラジオ受信機があまり普及していなかったことが聴く人が少なかった一番の原因であろう。

伯剌西爾時報1932年7月11日

 その後日本からの短波放送がブラジルでも聞こえるとしばしば伝えられ、ラジオを買う人も増えて行った。このような状況の変化に着目した鈴木威(東京都出身)は、1934年6月頃ラジオ・エドゥカドーラで「日本の夕」を開始した。
 これはブラジルで初めて定期的に行われた日本語放送となった。その強力な電波はバウルー、リンス、リベイロン・プレット等日本人が集まるサンパウロ州の町でも聞こえたという。
 同局はその後ラジオ・ガゼッタとなり、1972年10月から大村吉信の「ブラジル日本放送」、1982年4月からはレイカ・ミヤシタ広告会社制作による「日本の音楽とニュース」が放送された。短波放送のおかげで日本でもその番組が聴かれた。日本語放送はなくなっても人々の記憶の中に生き続けている。
【参考資料】
・Correio de São Paulo 1932年7月7日
・伯剌西爾時報1932年7月11日
・日本時間(ブラジル編)2010年 平原哲也

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