《特別寄稿》ブラジルに根付いた小野田精神(下)=地球の反対側の日本語学校という〝宝〟=サンパウロ市 榎原良一

「いざ、カンポ・グランデへ」

 楽しく且つ有意義なフィリピン旅行を終えて日本に戻るが、悔いを千載に残す気持ちがつきまとう。彼のルバング島での苦境は、戦後経済大国へと移行した日本では活かされず。よし、それならば、ブラジルに戻ったら、小野田さんが牧場経営をしていた場所を訪ねてみよう。彼の投降後に、日本に比して海外から肯定的な評価を受けた理由も分かるかも知れない。
 昨年12月にブラジルに戻った後に、私は彼が所有していた牧場訪問を模索していた。そして、偶然にも、そのきっかけがやって来た。今年1月に日帰りのバス団体旅行に参加した。知り合いも居らず、既に窓側の席に座っていた日系人女性の隣に腰を下ろした。
 取り留めのない会話をする内に、彼女が南麻州カンポ・グランデからやって来たことが分ってきた。早速、昨年訪ねた小野田洞窟に話を振った。「はい、彼のことは良く知っていますよ。私を含めて子供3人は、彼の姪御さんの経営する日本語学校の生徒です」
 予期しない感動的な出会いがやって来た。こういう出会いを「神様のお導き」と言うのだろう。こんな感動的な出会いから約1カ月半後に、1千キロあまりを15時間もバスに揺られてカンポ・グランデに向かった。彼の著書『わがブラジル人生』には、頻繁にバスでカンポ・グランデ/サンパウロ間を行き来した記述がある。
 ならば、私もバスで行かなければ意味がない。カンポ・グランデの長距離バスターミナルに早朝到着後、早速タクシー運転手とバルゼア・アレグレ迄の値段交渉を試みた。しかし、小野田さんが所有していた牧場があった地域のバルゼア・アレグレの地名は、どうしたことか、誰一人として知らない。

 埒が明かないので交渉を諦めて、ミリアンさん(バスで隣り合わせた日系人)が段取りしてくれていた武井安子さん経営の「ひまわり学園」に向かった。武井安子さんは、小野田さんの次兄格郎さんの長女、即ち小野田さんの姪御さんに当たる方だ。
 やや緊張して学校に入ると、武井先生とミリアンさんが出迎えてくれた。しかし、学校に足を踏み入れると、緊張がいっぺんに吹っ飛んでしまった。ここには、昔の小学校の教室を彷彿とさせる雰囲気がある。昔、私が通った幼稚園や小学校の教室がそのまま再現されているかのようだ。
 教室の壁には、ひまわり学園が毎年開催する「餅つき」「お茶会」「七夕祭り」「ひな祭り」等の写真が壁を埋め尽くしている。特に、目を引いたのは、額に刻まれたひまわり学園の教育方針だ。
 武井先生は小野田少尉の次兄格郎さんの長女、即ち小野田少尉の父母のお孫さんにあたる。お父さんの格郎さんが出征中、ずっと武井先生は祖父母の下に同居して、厳しく、そして愛情を持って育てられたと語っていた。
 武井先生は現在87歳、彼女の年齢から察するに、祖父母と同居していた時期は、彼女が5歳前後の頃だと思う。そして、中学校の中等教育を終えて、戦後ブラジル移民が再開された1953年頃に、ご家族と共に15歳の年齢でブラジルに移住されて来られた。それ以降、武井先生は自分をかわいがってくれた祖父母とは、一度も会ったことがないと言う。
 昔の移民のままならぬ苦しみが伝わってくる。しかし、祖父母から受けた教育や躾は、今も先生の心に深く刻み込まれている。そして、その祖父母から受け継いだ日本の精神が、地球の反対側にあるカンポ・グランデのひまわり学園での日本語教育を通して、ブラジルの子供達に引き継がれようとしている。

「いざ、小野田牧場へ」

 武井先生との楽しい会話は、約3時間に及んだ。ミリアンさんがJICAの日本研修で習得した和菓子も、会話に花を添えてくれた。当初は、武井先生とお会いした後に、午後からタクシーを雇い、小野田さんが所有していた牧場に向かう予定にしていた。
 しかし、嬉しいことに、武井先生とミリアンさんが、道案内を買って出てくれた。小野田少尉が所有していた牧場は、当時国際協力事業団(JAMIC)から分譲を受けた土地から始まり、以降隣接地を買い増して最終的に約1200ヘクタールまで拡張していったらしい。

 今は第3者の手に渡っており、牧場内には許可なしでは立ち入り禁止となっている。仕方なく、牧場を背景に3人の写真を撮った後、バルゼア・アレグレ日本人会館を訪ねた。会館では、武井先生が前もって連絡をしてくれていた江崎日本人会現会長ご夫妻が出迎えてくれた。
 ご夫婦は私と同時期にブラジルに移住され、現在奥様はこの移住地で日本語の先生をされている。ここでも、5人の昔話や苦労話に話が弾んだ。いきなりやって来た私にも、「来る者、拒まず」の精神で私を歓迎してくれた。
 この移住地は日本人社会ではバルゼア・アレグレ植民地と呼ばれているが、どうもブラジル人には聞き慣れない名前で一般的にはJAMIC植民地と言われているらしい。戦後、日本側で日本海外移住振興(株)が設立され、ブラジル側に現地法人として移住地の造成や営農指導を行うジャミック移植民(有)が設立された。
 そして、このジャミック社の分譲地がこの周辺に有ったとのこと。日本人会の正式登録名はバルゼア・アレグレ日伯体育文化協会という。小野田さんはこの協会の初代会長、以来2期会長を務められた。

「日本精神が引き継がれるカンポ・グランデ」

 武井先生が祖父母から受け継いだ日本精神は、60年以上経った今もカンポ・グランデで次世代の若者や子供達に受け継がれようとしている。日本語は世界一美しい言語であると同時に、世界一難しい言語でもあります。日本語を教えることは日本の文化を教えること、そして日本の精神を教えることでもあります。
 ですから、日本語は簡単に習得できる言語ではなさそうです。何故ならば、日本の文化や精神は簡単に身につく程安っぽいものではないからです。しかし、若い頃に一旦身につけると、簡単に忘れてしまうものでもなさそうです。
 そういう意味からも、武井先生は生き字引といえそうです。是非、武井先生にはお元気でこれからも、日本語を通じてブラジルに、そして世界にも通用する逞しいブラジル人を育てられることを切に願います。
 「ひまわり学園教育方針」:人間としての基本的な心構えを日本語を通して身につけ、美しい日本の心「和と敬」を大切にして、ひまわりのように天に向かって恥じることなくまっすぐ伸びていきましょう。

「ブラジル社会にも根付いて欲しい日本精神」

 日本からのブラジル移民が1908年に始まり、今年で116年を迎えました。しかし、ブラジルへの日本政府公認の移民は1993年を持って幕を閉じ、一方では、1世の高齢化も相まって、累計日本人移住者数26万人の内、現在では生存者数が数万人に減少してしまいました。
 そして反対に、時間の経過と共に現在では、ブラジル生まれの日系人数は約270万人となり、この傾向は原則的に今後も継続することになります。結果、日本人移住者を中心にしたいわゆるコロニア社会が、基本的に消滅することを意味します。従って、これからも増え続ける日系人の帰属意識(アイデンティティー形成)がどの方向に向うのかは、私達1世に取っては大きな関心事になります。
 昨年7月21日付けのブラジル日報特別寄稿欄の、毛利律子さんの興味深い文言が目を引いた。「人間を脅かす禍は、自らの根源を忘れてしまうこと」と述べられている。20世紀最大の人類学者、哲学者、そして親日家としても知られるクロード・レヴィ=ストロースの著書『月の裏側』の一節とのこと。私は以前から、自分なりに理想的なブラジル人論を持っている。勿論、ブラジル日系人論でもある。その理想像とは、日本精神を身にまとった弱肉強食の社会で培われた逞しいブラジル人。
 分かり易く言うと、日本のおとぎ話の一つ「桃太郎」の主人公、桃から生まれた気は優しくて力持ちの桃太郎。ブラジル日系人には、日系人としての誇りを持ち続けて欲しい。誇りとは大切なことや物を守る心に他ならない。(終わり)

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