特別寄稿=ブラジル移民、猪木寛至の3年間=“燃える闘魂”の原点ここに=スポーツライター・沢田啓明

1960年4月6日のサンパウロ新聞

 日本時間の10月1日午前7月40分(ブラジル時間の9月30日午後7月40分)、“燃える闘魂”と呼ばれたアントニオ猪木がこの世を去った。享年79歳。この数年間、「全身性アミロイドーシス」という難病と闘い続けた。次第に痩せ衰えていく姿を動画で公開しながらの、壮絶な死だった。
 亡くなってからすでに約1カ月が経過したが、日本では彼を追悼するテレビ番組や記事が後を絶たない。いかにこの男が影響力を持っていたか、人気が高かったかを改めて思い知らされる。
 10月13日、東京で家族だけの通夜が営まれた。翌14日には都内の斎場で告別式が行なわれ、現役やOBの大物プロレスラーらが大勢集まって棺を担いだ。
 今後は、早ければ年内にファンのための「お別れの会」が催される予定で、数万人が直接猪木に別れを告げることになりそうだ。
 アントニオ猪木こと猪木寛至は、1943年2月20日、横浜市鶴見区で11人兄弟の9番目(6男)として生まれた。
 父親は石炭問屋を営んで繫盛し、一時は横浜市の市会議員も務めた。しかし、燃料の主力が石炭から石油へ移行して会社が倒産。寛至が5歳のときに病死した。
 1954年2月19日、つまり11歳になる前日、寛至は近所の家のテレビで力道山と木村政彦がシャープ兄弟と対戦した日本初のプロレス国際試合を見た。力道山の強さとカッコよさに興奮してプロレスラーに憧れる一方、亡き父のような実業家、政治家にもなりたいと考えた。
 彼が14歳のとき、兄の一人の発案で、一家はブラジルへ渡ることになった。当初は移住するつもりはなく、数年間働いて金が貯まったら日本へ戻るつもりだった(これは、当時の大多数の“移民”と変わらない)。
 猪木一家を乗せた「さんとす丸」は、1960年2月初めに横浜港を出て、パナマ運河を通過し、約1カ月半の航海の末にサントス港へ到着。列車でサントスからサンパウロのルス駅へ到着し、別の列車でサンパウロの北西約500キロのリンスへ着き、そこからさらにトラックの荷台に乗ってファゼンダ・スイッサ(スイス農場)へ到着した。一家は、この農場主と1年半の労働契約を結んでいた。

妹の佳子さん

 あてがわれた家は、家畜小屋に近かったという。トイレもなく、野原に土を掘って用を足し、排泄物はそこへ埋めた。当時を振り返り、妹の佳子さん(当時10歳。現在、サンパウロ在住)は、「こんなところに長く住めるのかしら、とすごく不安だった」と述懐する。
 翌日から、朝5時に起床し、徒歩で近くのコーヒー園へ行き、酷暑の中で夕方までコーヒー摘みに従事する日々が始まった。
 コーヒーの実は固く、もぎ取るのは容易ではない。軍手をはめていてもすぐにボロボロになり、やがて手が血だらけになった。
 当時を振り返って、佳子さんは「兄たちはコーヒー園で一日中働き、母や私たち女性は食事の世話や洗濯を担当した」と語る。そして、「一日の労働を終えると、兄たちのシャツには汗が大量に沁み込んでいた。汗の塩気でシャツが固まり、縦にすると床に立つんです。大変な重労働でした」と証言する。
 猪木家と同じ「さんとす丸」でブラジルへ渡り、同じ「ファゼンダ・スイッサ」で働いた人がいる。静岡県出身の片山芳郎さんで、当時17歳だった(現在はアチバイア在住)。
 「仕事は本当にきつかったし、生活も厳しかった。でも、我々は契約に縛られており、農場の警備員が銃を持って見張っているから、脱走もできない。まるで奴隷のような日々だった」
 「寛至は当時から大柄で、よく働いていた。あの厳しい労働をしたから、体力と根性がついたのだろう」
 「日曜だけは休みだった。娯楽が他になかったから、寛至とは相撲を取ったり、空手家の彼の兄から一緒に空手を習ったりした」
 1年半の契約期間が満了すると、猪木家は「ファゼンダ・スイッサ」を出た。リンスの南約70KMにあるマリリアの郊外に土地を借り、小作農となった。
 最初の年は綿花を作ったが、栽培の方法がわからず失敗した。しかし、次の年に落花生を栽培して成功。ここで1年余り働き、稼いだ金で一家はサンパウロに家を買った。1959年、寛至が16歳のときだった。
 「私たちは横浜育ちで、田舎での生活に馴染めなかったので、サンパウロへ出ることにしたんです。兄たちは、知人の紹介でサンパウロ市の青果市場(現在もサンパウロの中心部にある)で働くことになった。穀物などが入った重い袋を運ぶ肉体労働です」(佳子さん)
 日本人移住者の多くが農業に従事していたこともあり、市場では大勢の日本人や日系人が働いていた。
 猪木は非常に大柄で力が強く、よく働いたので市場ではかなり目立つ存在だったという。
 そして、兄の一人が陸上の長距離選手だったことに影響を受け、砲丸投げ、円盤投げ、やり投げなどの投擲競技を始めた。一人で黙々と練習をしていると次第に記録が伸び、日系人の陸上大会で優勝。さらには陸上のブラジル選手権にも出場して好成績を収めた。
 一方、日本では力道山が国民的英雄となり、プロレスが大変な人気を博した。
 力道山は、1958年にブラジルで興行を打ち、サンパウロ市内とサンパウロ州の日系人が多く住む町を巡回して大勢の観客を集めた。そして、1960年3月、再びブラジルで興行を行なった。そして、日本へ帰国する直前に猪木のことを知り、弟子にして日本へ連れて帰った。
 コンゴーニャス空港で帰りの飛行機に乗る直前の力道山と猪木の写真が、パウリスタ新聞とサンパウロ新聞に掲載されている。
 17歳の猪木は、当時35歳の力道山より背は高いが体の線が細い。表情も幼い。力道山は「鍛えれば、一流のレスラーとして檜舞台に君臨できる。私の後継者として養成したい」と語っている。
 とはいえ、いくら体格が良くても格闘技の経験はほとんどなかった少年だ。実際のところ、力道山にとっては海のものとも山のものともつかない新弟子の一人にすぎなかったのではないか。
 しかし、その後のアントニオ猪木の活躍は日本人なら誰でも知っている。恩師力道山の期待を遥かに上回る偉大なレスラーとなった。

一族でパラオへ旅行した際の写真

 日本のプロレス界有数のスターとなってからも、猪木は妹ら親族や親しい友人がいるブラジルを毎年のように訪れ、政財界の人々とも交流を持つなど、生涯を通じてブラジルと深く交わった。
 アントニオ猪木がブラジルに住んだのは、わずか3年だった。それでも、彼のレスラーとして、また人間としての原点がブラジルでの少年時代にあったのは間違いない。
 このことを、我々ブラジルに住む日本人は大きな誇りとしていいのではないだろうか。

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