《記者コラム》ブラジルに託した明治の精神=モジに残された渋沢栄一の揮毫

「総親和総努力 八十九翁 渋沢栄一書」

 4月の「モジ秋祭り」で大変気になるものを見た。モジ日本語モデル校の展示にあった「総親和総努力(皆が仲良く努力し合う) 八十九翁 渋沢栄一書」という額で、落款まで捺されていた。
 秋吉功校長によれば、「昨年末の大掃除の際、見つかりました。すごいものが出てきたと、みんなビックリ。ピンドラーマ会館に飾られてある渋沢栄一の書とまったく同じ筆跡だった」とか。

渋沢栄一の肖像画(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 渋沢栄一は1840年3月16日生まれ、1931年11月11日没。明治・大正期の日本の実業界や財界を代表する人物であり、2024年度発行予定の1万円の肖像にもなっている。昨年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」でその生涯が描かれたばかり。
 渋沢が数えで89歳なら昭和3(1928)年の揮毫だと思われる。数えで88歳は米寿、卒寿なら数えで90歳だ。その辺のめでたいタイミングで書かれたものかもしれない。いずれにしても亡くなるわずか3年前。
 本物であれば、とんでもなく貴重なものだ。秋吉さんは「すごいものなんですが、一世にしか分からないのが残念」と悔しがっていた。
 ちなみに前述のピンドラーマ植民地は同市内にあり、1947年頃、非常に困難な地権取得問題が発生した際、日本人住民全員が5年がかりで団結して解決した輝かしい歴史を持つ。
 そこの会館にも、まったく同じ額があることは、ニッケイ新聞2019年5月31日付《渋沢栄一翁の扁額由来記=モジ・ダス・クルーゼス 山元治彦》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190531-sanbun.html)で知っていた。
 同投稿いわく《この扁額も長年のあいだ、会館での会合や催しごとがあっても皆の興味を惹くでもなく、壁にかけられていた。ある時は会館の改修工事や壁の塗り替えで物置にいれられたまま、文字通りお蔵入りになっていたこともある》とか。でも、山元さんがその重要性を繰り返し説き、再び壁に掛けられるようになったという。
 渋沢の肖像が1万円札になるというニュースが日本で広まった直後に、ピンドラーマ植民地でも大騒ぎになった。《一騒ぎのあと、「本物かよ」「売ったらなんぼ?」「外に知れたら盗られはせんか」「カメラとアラルメ(警報)が要るな」などビックリ半分、喜び半分で意見百出する。真贋については私は真ものだと思っている》と書かれている。

一介の小学校教師で27歳の青年と面会した渋沢

 『拓魂永遠に輝く』(モジ五十年祭典委員会、1971年)を紐解いてみると、ピンドラーマ植民地の額の由来が書いてあった。《後年修養団主幹蓮沼門三が来植の際、この話を聴き、感動のあまり「総親和、総協力」の揮毫を残し激励するところがあったが、この六文字が現在植民地の合い言葉(信条)となっている》(同230頁)と書かれている。蓮沼は渋沢ゆかりの人物だ。
 蓮沼門三は1882年2月22日生まれ、1980年6月6日没。わずか24歳、小学校教師の傍ら1906年に社会運動団体「修養団」(本部=東京)を創立した。27歳だった1909(明治42)年6月13日、若き日の蓮沼は支援を求めて渋沢に面会し、修養団の精神を熱烈に説いた。
 日露戦争直後だった当時、同じような社会運動団体は雨後の竹の子のように東京には生まれていた。弱小新興だった修養団には、ぜひとも経済的な後ろ盾が必要だった。
 まだ青二才だった蓮沼の話に、人生の円熟期を迎えていた70歳の渋沢は共感を覚えた。渋沢は活動進展に期待して支援を申し出て、翌年から終生顧問を務めた。

山崎一紀修養団主幹のコラム《渋沢栄一と蓮沼門三》(機関誌『向上』21年6月1日発行の第1312号)

 サンパウロ市在住の蓮沼門三の甥・芙美雄(87、2世)に、渋沢と蓮沼の関係を尋ねると、修養団が日本で発行している機関誌『向上』21年6月1日発行の第1312号を送ってくれた。確かに山崎一紀修養団主幹によるコラム《渋沢栄一と蓮沼門三》があった。
 同コラムには当時のエピソードとして《門三が一筆一拝の祈りをもって長さ六間(約十メートル)にも及ぶ手紙を渋沢翁に送ったところ、「ご書面を拝見して、君の熱誠に感じ入った。ついては、この次の日曜日に会うからくるように」という返事をもらったのです》と書かれている。
 すでに雲の上の存在だった渋沢と、一介の小学校教師に過ぎなかった蓮沼は最初、面会すらできなかったらしい。
 『修養団三十年史』(同団編集部編、1936年、65―68頁)には、その時の面会で渋沢が語った言葉が書かれている。
《主幹(蓮沼)は衷心をぶちまけて、修養団の精神を語った。
 熱心に傾聴して居られた(渋沢)翁は、やがて口を開かれた。
 『色々と承って修養団の精神がはっきり判りました。悦ばしい団結です。
 自分は予て、算盤と論語とを以て処世の要道として来ました。その何れも欠いても行けない。貴君方の愛と汗は、正しく算盤と論語――経済と道徳――を一致せしめるものです。そしてこれが国家社会を明るくする道です。
 私は貴君方青年に期待する。邦家の為に層一層の努力を続けてください。不肖私も力の限り助力さして戴きませう。』
 静かな老男爵の微笑が感激にふるへる主幹を送り出した》
 『向上』第1312号のコラムの最後には、《まさにこの時、門三の祈りと熱誠が天下の渋沢栄一男爵の心を動かし、その後亡くなるまでの二十二年間、本当に誠意溢れる物心両面に渡る支援をしてくださったのです。そのお陰でその後の修養団の大躍進があり、百十五年後の今があるのです》と締めくくられている。
 強いつながりが渋沢と蓮沼にはあった。その流れで修養団のスローガン「総親和総努力」を渋沢に揮毫してもらったようだ。明治期らしい篤い志が感じられる逸話だ。

今も活動を続けるブラジル修養団

蓮沼門三の甥・芙美雄さん

 芙美雄に聞くと、「蓮沼門三は父の兄にあたります。私は1934年に第一アリアンサで生まれました。門三は1952年にブラジル中を8カ月間も歩き回った。その際に置いていったものでしょう。私はまだ子どもだったので、当時のことはよく分かりません」とのこと。
 芙美雄がブラジル修養団の活動をずっと支えてきたのは、門三の末弟にあたる父・信一が、1926年にブラジル移住して修養団の活動を始めたからだ。
 芙美雄は「父に連れられて門三に会ったことはあります。門三はブラジルのことをとても気に入って、『きっともう一度ブラジルに戻る』と言いながら、その機会に恵まれなかった」とも。
 芙美雄が第1副会長を務める「ブラジル修養団連合会」(桜井仁会長)は、パンデミック中こそ休んでいたが今も活動を続ける。ニッケイ新聞の過去記事(https://www.nikkeyshimbun.jp/?s=修養団)を見ると、それが分かる。
 とはいえ、正式にブラジル修養団が創立したのは1971年、パンデミックの真っ最中の昨年2021年に本来なら記念すべき創立50周年を迎えていた。
 蓮沼はおそらく、ここぞと思う訪問地に渋沢の揮毫を寄贈していった。ブラジル訪問した際、奇しくも自分がようやく面会した際の渋沢と同じ歳、円熟した70歳になっていた。
 この揮毫の真贋を東京の渋沢史料館に問い合わせると、「書自体は渋沢栄一の手によるもので間違いはありません。落款も。ただし、直筆ではなく印刷物では」との回答だった。印刷物だから価値がないと言うことはない。その言葉を贈るのにふさわしい場所だと、蓮沼が判断したこと自体に価値がある。
 もちろん印刷物である以上、蓮沼は日本各地にも寄贈しているに違いない。だが、彼の琴線に触れる場所の一つが、ブラジルの片田舎モジの日本語学校や、日本人の美談として語られる史実を持つピンドラーマだった。
 「明治の精神」がブラジル日系社会には残っていると言われるが、まさにその証拠といえる。

今に存在感を残す渋沢支援のプロジェクトの数々

東京都北区の飛鳥山公園内にある渋沢史料館の入り口(Twilight2640, via Wikimedia Commons)

 渋沢栄一記念財団の機関誌『青淵』715号(2008年10月)の「史料館だより」コーナーにある《ブラジル移民100年 企画展「日本人を南米に発展せしむ 日本人のブラジル移住と渋沢栄一」開催》には、渋沢とブラジルにつながり関して、次のように要約されている。
 《日本の経済界を牽引する渋沢栄一が、ブラジル移民事業に関わったことはあまり知られていません。海外への移民のあり方と、移民を送出する制度と機関の必要性について心を配っていた栄一は、ブラジル最初の日本人植民地であるイグアペ植民地を開設した伯剌西爾(ブラジル)拓植株式会社、アマゾンに日本人植民地を拓いた南米拓殖株式会社、移民の教育を目的とする海外植民学校などに関わり、自らの考えを実現するために尽力しました》(https://www.shibusawa.or.jp/museum/newsletter/305.html
 1913年11月に入植が始まったブラジル最初の永住者向け定住地「桂植民地」(https://www.nikkeyshimbun.jp/page/10?s=日本移植民の原点探る)を手始めに、レジストロ地方で植民事業を行った「伯剌西爾拓植株式会社」。
 アマゾン最大の日本人移住地トメアスーなどの拓殖事業を行った「南米拓殖株式会社」(https://www.nikkeyshimbun.jp/page/2?s=アマゾン90年目の肖像)。
 ただの労働者を送り出すのではなく移民を指導する中堅リーダーを育成することを目指した「海外植民学校」(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190905-61colonia.html)。
 ニッケイ新聞2013年7月20日付連載『日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年=深く肩入れする渋沢栄一』(https://www.nikkeyshimbun.jp/2013/130720-61colonia.html)にも書かれている。
 現在まで一定の存在感を残す移植民プロジェクトばかりだ。今更ながらに翁の先見の明を感じさせられる。
 渋沢が強く共感して支援した蓮沼が、ブラジルで「総親和総努力」の精神を広めようとしたということは、国籍とは関係なく皆が仲良く協力しあう理想世界を目指したのではないか。
 モジ日本語学校、ピンドラーマに残された渋沢の揮毫はともにポ語訳が付けられ、うやうやしく掛けられている。まさに「コロニア国宝」的な存在といえる。そのメッセージを受け止める2世、3世、4世、5世はきっといるに違いない。
 18日にブラジル日本移民114周年を迎えた。東京の渋沢史料館を再び訪れ、飛鳥山公園で「明治の精神」にじっくりと思いをはせてみたいと改めて思った。(敬称略、深)

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