連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第8話

 金子りんはそこに目をつけ、京染店を開いたのである。仕事は順調に伸びて、生活にもゆとりが出来て、彼女の生まれ故郷の日向の親戚の子女を熊本に呼んで面倒をみる様になった。今、その頃を振り返ってみると、私の親戚関係で、彼女に何かの形でお世話にならなかった者はいない程、彼女は私たちの親戚のために頑張ってくれた。そのうちの一人、私のいとこで、日向の永江生まれの市松という男が熊本の泗水で豆腐作りをやっていた。その市松夫婦が日向に所用でやって来て、熊本に帰るのに私も一緒に初めての一人での汽車の旅で熊本に行くことになった。何の目的で行ったのか、単なる旅行だけではない。多分、食糧探し、つまり、おりんおばさんに米か麦を貰って帰ってくることが一つの任務だったのだろう。母ぬいと、おりんおばとの間ではその様な話になっていたのだろうけど、私にはそのことは何も知らされていなかった。でも、私は母ぬいの苦労をいつも見ているので、私の意志で、私の考えで、おりんおばさんに(私が日向に帰る時には食べ物を少し下さい)と要求したのである。その時、おりんおばさんはちょっとびっくりした様子であったが、後日、彼女が私の母ぬいに語ったところによれば(まぁ、徳善は感心な子だ。何と母想いの子だろう)とほめてくれたそうだ。
 私は何日かの熊本滞在中、あちこちと親戚の家を訪ねたのだけど、泗水村福の本の私の母の兄、つまり黒木伝松の家を訪ねた時のこと、伝松伯父は鍛冶屋で農家向けの鍬とか包丁など造っていた。ふいごを押したり引いたりして風を送り真っ赤に焼けた鉄をトントンと金づちでたたくのである。
 その向こう打ちをやっているのは伝松の妻、まさ子伯母さんである。女盛りが上半身真っ裸で、乳房をぶらぶら振りながら勇ましい仕事振りである。暑い真夏の日の午後、その当時生活のため成り振り構わずの仕事ぶりだったのだ。
 その近くの庭では五~六人の子供達が遊んでいた。後で分ったのだが、その中の一人の女の子が将来、私の妻となる美佐子であったとは思いもしなかった。

楽しいお祭りの思い出

 また、話は前に戻るが、戦争中の私の児童期の記憶はまとまりのない本当につながりのない断片的なものしかない。前に書き忘れたことが一つか二つ、当時の町の大きな祭りは十月の十五夜祭で富高のメイン通り本町から中町、南町と提灯や人形飾りなどが出て、その間には出店が一杯で人がぞろぞろと賑やかであった。

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