ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(204)

 連続襲撃事件の内、少なくともサンパウロで起きた事件に関しては、臣道連盟・特攻隊犯行説が間違いであることの根拠となる。
 話を戻すと、本家、谷口は四月一日事件の二日後、逮捕され、DOPSで取調べを受けた時「特行隊」「決死隊」のことを口頭、つまり音(おん)で「トッコウタイ」「ケッシタイ」と言ったのだ。
 隊名は秘密ではなかったから、 問われれば素直に喋ったのであろう。
 それが刑事から新聞記者に伝わった。無論、日本語の漢字ではなく、ポルトガル語で口頭=音=で言ったのである。
 新聞記者は、トッコウタイと聞いた時、既述の様に、日本軍の特攻隊と思い、そのまま記事にしたのだ。
 ところが、この勘違いから生まれたトッコウタイ=特攻隊=という言葉は、広く響き渡った。
 以後に起きた一連の襲撃事件の実行者は、皆、世間から、トッコウタイ=特攻隊=と呼ばれるようになる。
 当人たちの中にも、自分たちを特攻隊と思い込んでいる者もいた。そして「特攻隊」は日系社会史上、不気味な光を放ち続けることになった。ケッシタイの方は、何故か、消えている。ニュース性がなかったためであろう。
 最初の…つまり四月一日事件の隊員の中にすら知らない者がいた…その程度の隊名が、勘違いされたまま、歴史的な存在になってしまったのである。
 通説、認識派史観の所有者が使用している「特攻隊」という言葉も、右の様な経緯から生まれた勘違いを踏襲しているのである。 
 話を、再び牛沢の菜園の傍の小屋に戻す。
 四月一日、夜明け前。
 十人は、安物の背広の上にカーキ色のコートを着、ネクタイはせず短靴を履いていた。
 コートを着たのは襲撃時、格闘になって背広が破けたり返り血を浴びたりするかもしれぬ、と用心したのである。
 さて、いよいよ出発である。まず、古谷襲撃班の決死隊が、最年長の渡辺辰雄を指揮者に決めて、小屋を出た。
 先に記した様に、彼らがサンパウロへの出発時「全員が指揮者であり部下である、ということにした」と押岩が話しているが、それは精神的なもので、イザ現場に…という段階になれば、混乱を避けるため、やはり指揮者が必要であったのだろう。
 五人は、地理的に見て、アベニーダ・ジャバクアラを通ったであろう。途中、臣道連盟の本部の側を過ぎた筈である。やがてアクリマソンの古谷宅(ブラス・クーバス通り258)に近づいた。
 日高の記憶によると、薄暗い街灯を頼りに歩いたという。
 その歩いたという点について筆者が、
 「路面電車に乗って行った…のではないのですか?」
 と訊くと、日高は、
 「何言うンですか、アナタ。昔の人間は、それ位の距離は皆、歩いたものですヨ」
 と断固として否定した。
 筆者がそう質問したのは、DOPSが彼らからとった調書の中に、路面電車に乗って行った…とあったのを思いだしたからである。
 右の日高の一言には実感があった。筆者は(こういう具合では、DOPSの調書は、ほかの部分も怪しいナ)と思った。
 もう一つ、筆者がどこかで見た一資料は、この夜、霧が出ていたと記してあった。劇的な情景描写である。テロリストは雪、しからずんば霧の中から現れるのがふさわしかろう。執筆者は、そう書きたくなるであろう。
 ただし、この資料には執筆者の名もなく、当人たちに取材した形跡もなかった。
 念のため、筆者が日高に確認を求めると、「霧? 記憶にありませんネ」
 と、素っ気なく否定した。
 山下も、
 「あの日は晴れていた。霧は出ていなかった」
 と否定した。
 半世紀以上も昔のことであるが、人を殺そうとしていた時、自分の人生が一変しようとしていた時のことである。記憶に残っていても、何ら不思議はない。
 古谷宅に着いた五人は庭に入り込んだ。日高のそばに北村が近づいて来て、
 「オイ、落ち着いているか?」
 と聞くので、その証しに小便をしてみせた。
 丁度、夜明け時で、部屋に明かりがついた。そこに古谷らしい人影が見えた。渡辺の指揮で、皆、一斉に狙撃した。ところが、
 「窓ガラスを撃ったが、穴があいただけで…」
 と、日高は、そのときの意外な感じを表情に浮かべる。ガラスが飛び散り、そこから続けて狙撃するつもりだったのが、当てが外れたのである。
 渡辺がガラスを銃床で破り、撃ち込んだ。が、すでに人影は隣室に退避していた。表に廻り、扉を破ろうとしたが、破れない。
 そうこうしている内に、警邏中の警官たちが駆けつけた。渡辺、池田が投降。吉田、北村、日高は逃走した。(つづく)

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