ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(177)

 自身で調査・取材していないというのは怠慢過ぎる話である。
 それと新聞記事というものは必ずしも正確ではない。特に事件モノはその直後に急いで記事にするため、間違いが起こり易い。
 その記事だけに頼るのは危険過ぎる。
 これら認識派史観の中には、DOPSが逮捕者からとった供述調書の一部を引用したものもある。(DOPS=九章参照)
 が、これは、あくまで警察側が作った調書であって、法廷が認めた事実ではない。
 何よりも致命的な欠陥は、右の認識派史観が、どれも臣道連盟の役員に対する裁判所の判決を提示していないことである。
 筆者が調べたところでは、実は連盟の役員には、判決は下っていない。それどころか、裁判そのものが開かれていない。
 裁判所が、起訴を受け付けなかったのである。ブラジルでは、裁判所が受け付けない場合、法廷は開かれない。
 起訴内容が不十分、不適切な場合、そういうことが起きる。
 従って、臣道連盟犯行説は法的には成立していない。単なる通説であったに過ぎない。
 認識派史観の執筆者は、それを知らなかったのだ。
 さらに「臣道連盟・特攻隊側の話を聞く」という基本的な作業も全くしていない。
 ともかく、お粗末極まる仕事ぶりで、呆れ返った。
 文協など日系社会の中核的な諸団体が、ブラジル移住何十周年といった節目ごとに、共同で組織した祭典委員会が制作した「日本移民〇〇年史」の類いも同じである。
 また、資料類の中には、想像で事件を膨らませ、興味本位に話をデッチ上げているものすらある
 日本の昭和期の代表的評論家であった大宅壮一、かなり名の知られた小説家の高木俊朗が、ブラジルを訪れ、この事件に関する取材を行い、帰国後に書いた作品ですら、その杜撰さは変わらない。(大宅は一九五四年、高木はその二年前の一九五二年に来ている)
 何故、誰も彼も、こんな無責任な仕事をしたのだろうか。
 筆者は(これは、なんとしてでも、臣道連盟・特攻隊の人々の話を聞かねばならない)と思った。その多くは故人になっているであろうが、生存者もいる筈だった。  
 しかし何処に居るかは全く判らなかった。ただ、微かな手がかりが一つだけあった。「襲撃事件に関与した」という噂のある知人が1人居たのである。この人に会えば、何らかの手がかりが得られるかもしれない、と思った。
 しかし、実際に訪問する決心をするまでには、時間がかかった。(向こうが喜ばないだろう)と躊躇ったのだ。誰でも自分の古傷をつつかれるのは好まない。まして筆者は報道関係の仕事をしているのである。
 しかし、ほかに手がかりはなかった。思い切って、訪ねることにした。

 押岩嵩雄

 その相手は押岩嵩雄という広島県人であった。
 筆者が日本からサンパウロに転住して間もなく知り合い、その後、時々会っていた。ただ、その間、彼に関する前記の噂を耳にしても、それを話題にすることは、こちらから避けていた。 
 訪ねたのは、西暦二〇〇〇年のことである。前回会ってから十数年ぶり、襲撃事件からは半世紀以上も経っていた。
 まず押岩の居所を探した。それを知っている人が見つかった。親切に押岩の住み家に案内してくれた。  
 サンパウロの市内ではあるが、都心から数㌔離れた、庶民住宅の多い地区の古い平屋だった。荒壁の土が落ち、竹小舞が露わになっていた。
 門口の呼び鈴を押すと、中から一人の老人が出てきた。押岩だった。直ぐには筆者を想いだせないようだった。ややあって気づき、身体を上下に揺すって「オウ、オウ!」と声を上げて喜んでくれた。
 挨拶が済んで、
 「幾つになられましたか?」
 と訊くと、
 「もう九十だよ!」
 と自分でも呆れるという口調で答えた。
 しかし元気だった。
 人柄の良さを現わす温顔も変わっていなかった。家の中に入ると、豊かさを感じさせる家具は何もなかった。しかも一人暮らしという。
 古びた椅子に腰かけ、筆者が慎重に、
 「実は今、日系社会の歴史を調べていて、終戦直後の例の騒ぎに取りかかっているのですが、判らないことが多くて…。特に連続襲撃事件に関しては…。押岩さんは、それに関わったと耳にしましたが…」
 と用件を切り出すと、突如、口を開け、
 「アッアア…」
 とでもいう様に、声なき声を上げ、両の瞼に右手の指をあてた。
 十数秒そうしていたろうか。指を離すと、瞼は赤く腫れあがり、目には涙が溜まっていた。(つづく)

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