ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(203)

記者会見で決死報告、特攻隊と墨書した日の丸を見せるDOPSの刑事たち

 なお山下は、この日は参加しなかったという。理由は当人も覚えていない。
 続いて三十一日夜、彼らは、牛沢鶴太郎の菜園の傍にある小屋に集合した。牛沢は家を空けていた。
 この時、変事が起った。新屋敷が現われなかったのである。「裏切りか?」と疑う者もいた。
 新屋敷のこの行動は、押岩によると、
 「急病によると聞いた。事件後、彼も逮捕され、その後、病死したそうだ」
という。
 小屋に集合したのは、他の十人である。
 新たな目標が年長者から示された。古谷重綱と野村忠三郎だった。
 古谷は終戦事情伝達趣意書の署名者であったが、格別、認識運動に熱心だったわけではない。それが目標に選ばれたのは、元アルゼンチン公使という肩書によるものであったろう。居所も、そこに警備員がいないことも、判っていた。
 野村は、伝達趣意書の署名者ではないが、認識運動の実務の中心人物であり、これも居所も警備員がいないことも判っていた。
 居所や警備員に関する情報は、前記の人々を含む協力者たちによって齎された。日高によると、協力者は三十人くらいおったという。
 さて、小屋に集合した十人は、五人ずつに別れ、それぞれ隊名を決めた。特行隊と決死隊と。
 整理しておくと、次のようになる。
 ▲特行隊…目標・野村忠三郎
 隊員=本家政穂、上田文雄、谷口正吉、蒸野太郎(キンターナ)
 山下博美(ツッパン)
 ▲決死隊…目標・古谷重綱
 隊員=渡辺辰雄、池田満(ポンペイア)
 北村新平、日高徳一 (ツッパン)
 吉田和訓(キンターナ)
 しかし、この隊名については日高、山下そして蒸野の三人は、
 「何々隊という様な名乗りをした記憶はない」
 と否定している。
 ところが、四月一日事件の決行者がDOPSでとられた供述調書には本家、谷口の分にToko‐taiとKesshi‐taiの文字がある。
 二か月後の六月二日の脇山事件の参加者吉田の調書にもある。
 三人は、野村班はトッコウタイ、古谷班はケッシタイと名づけたと供述しているのである。
 前記した様に、襲撃班がサンパウロへ出発する時、キンターナに残った押岩は、日の丸に「決死報国、特行隊」と墨書して渡した。
 以下は筆者の推定だが、襲撃の目標が二人となり、二班に分かれることになったため、特行隊のほか、もう一つ隊名が必要となった。そこで押岩がくれた日の丸に書かれた「決死報国」の文字から決死の部分をとって決死隊としたのであろう。
 しかし隊名が山下、日高、蒸野の記憶にないということは、その名乗りが十人全員には徹底していず、一部しか知らなかったことを意味する。
 襲撃目標と同様、隊名も年長者が決めたのであろう。
 それが記憶に残る様な明確な形で、全員に伝えられなかったことは考えられる。人を殺しに行く直前である。しかも皆、素人だった。極度の緊張状態にあった筈である。
 それは、ともかくとして。━━
 別掲の新聞記事の写真は、脇山事件の時のものだが、DOPSの刑事が襲撃者から押収した日の丸を、記者会見で提示している様子である。そこには「決死報告」「特行隊」と墨書されている。
 なお、この襲撃はキンターナの吉田、ツッパンの北村、山下、日高の四人が参加している。旗は吉田が所持していたものであろう。
 筆者は、この写真を二〇〇四年、押岩の自宅に持参、
 「ここにある文字は、貴方が書いたものか?」
 と確認を求めた。押岩は一瞬驚き、深く頷いていた。
 この写真は、長く通説、認識派史観として生き続け、あらゆる資料に使用されている「特攻隊」は、やはり誤伝で、正しくは「特行隊」であったことの物的証拠となる。
 つまり押岩の話の信憑性を高める。(つづく)

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