ブラジル日本都道府県人会連合会(谷口ジョゼ会長)が主催する世界最大規模の日本文化の祭典「日本祭り2025」が11日(金)にサンパウロ市ジャバクアラ区のサンパウロ・エキスポ・エキシビション&コンベンション・センター(Rodovia dos Imigrantes, km 1,5)で始まった。同祭は13日(日)までの3日間開催される。各県人会からは日本でも滅多に食べられない郷土料理が多数提供され、初日から会場は賑わいを見せていた。トヨタやホンダを先頭に企業ブースにも人だかりができ、若者向けのポップ文化エリアも注目を浴びていた。
谷口県連会長は初日11時、「初日からこんなに人が入ってくるのに驚いている。我々は18万人の予想に基づいて準備しているから、あんまり多いと逆に困る。県人会も食材が足りなくなったりすることもあるだろうし、人混みや列ができるのは困りもの。多過ぎず少な過ぎずとなることを期待したい」と述べた。正午には食の広場のテーブルの8割が客で埋め尽くされていた。
今年の注目郷土食の一つは、三重県人会の「伊勢うどん」だ。駐在員夫人の藤田夕子さん(51歳、山口県)が半年前から現地の材料を使って伊勢うどん作りの試行錯誤を行い、ようやくレシピが完成したばかり。同県人会の広瀬哲洋会長は「三重で育った藤田さんは自宅で伊勢うどんを作って食べていたそう。モジ市のMNプロポリス社で醤油のたまりを提供してもらったり、改良に改良を重ね、本格的な味を追求する姿勢には頭が下がります」と称賛する。
厨房から出てきてもらった藤田さんは「駐在したインドやロシアでも日本祭はありましたが、本格的な伊勢うどんを作るのは初めて。日系人がいるおかげで協力者の方の層が厚く、BRICSの中でもブラジルは一味違うと実感しています」と額の汗を拭いた。
静岡県人会では各種おにぎりに加え、お茶所らしく抹茶スイーツ各種が提供されていた。婦人部の山内みどりさん(74歳、2世)は「今回は若者が3週間もかけて準備し作ってくれた。チョコチップ風のクロカンチ抹茶、パン風にしたブラウニー抹茶とか、抹茶ゼリーの入ったあんみつのような抹茶カンテン、抹茶ラテもお勧め」と説明した。
遠くパラー州から今年も出店している汎アマゾニア日伯協会のブースでは、トメアスーの坂口農場のピメンタ、インディオ伝来の口が痺れるジャンブー草入りのピンガ、ジャンブー入りファロッファ、クプアスー生ジュースなど現地直送の珍しい品々が販売されている。
大分県人会の矢野敬崇元会長は「今年もだんご汁、鳥飯、餃子とメニューは同じだが、実は一味違う。昨年よりだいぶ美味しくなっている。ぜひ食べてみて」と呼びかけた。上階で開催中の「いいもの展」で、大分県からの出品企業の通訳ボランティアもしている矢野さんは「ブラジル人の心をときめかせるような素晴らしい商品ばかり。バイヤーもだいぶ来て、商談が結構まとまっているようだね。普通、ブラジルに来ない高級な菓子とか食材、日本酒や焼酎など、みんな品評会で最優秀賞をもらっているような商品ばかり。困るのは、良いものがあり過ぎて目移りすることかな」と笑った。
来場者の山中スズミさん(75歳、長崎県出身)は「毎年楽しみに来ているよ。長生き広場の催しや食べ物を中心に、グルグル会場を見て回るの。会場が広いから去年なんか迷子になっちゃったわよ」と笑顔を浮かべた。加藤弓子さん(82歳、島根県)は「知り合いからお好み焼きを食べにきてと誘われて、来ました。北海道のサンマも食べたいと思っています。色々なものが見られて楽しいわ」と語った。
高齢者エリアでは囲碁やマッサージ、体操などが行われ、疲れを癒すためのお茶が無料配布されている。日系企業によるワークショップや、来場者を巻き込んだ多彩なアトラクションも用意されている。
日本から2人組MPB演奏に=祖母がサンパウロ州生まれの奇縁

日本祭りの舞台ではこのために日本から来たギタリストのTakaaki Ohnishiさん(51歳、広島県出身)と歌手のKeiko Yoshimuraさん(45歳、熊本県出身)=共に東京在住=が金曜日昼と、土曜日13時25分からショーを行う。ボサノバや、MPBと美空ひばりをミックスした独自に編曲した作品などを演奏するという。
Ohnishiさんは「ジャズやロックなど色々な音楽をやってきたが、ブラジル音楽のリズムやハーモニーが一番、自分にしっくりきた。最終的に辿り着いたのがMPBやボサノバだった」とのこと。
Yoshimuraさんのお婆さんは戦前にサンパウロ州で生まれ、開戦直前に親に連れられて日本に渡って、そのまま日本で生涯を全うした人だという。2017年に初めて日本祭りでショーをしたついでに、お婆さんの姉が住むマリリア近郊の町に行って会い、日本にいるお婆さんと、その姉とをラインで70年ぶりに対面させた。
「その1カ月後にお婆さんは亡くなり、お婆さんの姉も1年後に亡くなりました。あの時対面させて良かったと、不思議な縁を感じました」とのこと。
「もしお婆さんがブラジルに帰ってきていたら、Yoshimuraさんは日系人としてブラジルで生まれていましたね?」と問うと、「果たして私は生まれていたんでしょうか」と笑った。