肝心の終戦の日は、半田は風邪で高熱に襲われ寝ており、日誌には何の記述もない。
それはともかく、ポルトガル語を解し、開戦以来、ポ語新聞を読んでいた半田ですら、かくの如くで、終戦直前までは、日本が巻き返すものと思い続けていたのである。
ましてポ語を解せず、新聞も読んでいなかった大多数の邦人は、すでに日本のポツダム宣言受諾報が流れていた終戦時になっても、祖国の勝利を信じていた。
日本型ナショナリズムの中で育ち、その熱風を浴びて来た人たちとしては、自然のことであったろう。
正体不明の日本語ラジオ放送
なお、右の半田日誌にある「八月十一日 …(略)…コンセレェイロの床屋へ行ったら、日本人は相変わらず元気なモノ。今朝のラジオはどうでした。原子爆弾とやらはインチキらしい…(略)…満州の方も大軍がきているんではないらしい」の部分には注意する必要がある。
今朝のラジオとは、無論、ポルトガル語のラジオ放送のことではない。ポ語のラジオが、こんな事実とは逆の放送をする筈はない
東京ラジオでもない。東京ラジオの戦況報告は、大本営発表を流していた。大本営はこの段階では、こんな発表はしていない。
実は当時、右のいずれとも違う正体不明の日本語のラジオ放送が存在していたのである。
これまた奇談だが、これが日本軍の大勝利報を流し続けていたのだ。床屋の客はそれを聴いていたのである。
この放送は、終戦後も続けられた。
これが、前章で記した「日本からの迎えの船」と同様、次章以降に記す終戦後の日系社会の騒乱の一因となる。
十一章
大騒乱(Ⅰ)
戦争は終わった。
しかし、日系社会に平穏な日々が戻ったわけではなかった。それどころか逆に、史上六度目の危機に見舞われたのである。
四、五度目に続いて休みなし、見舞われっ放しであった。その六度目とは。
資料類によれば、
「終戦直後、日系社会は、祖国日本は戦争に勝ったと信じる戦勝派と、負けたと認識する敗戦派に分裂、相争った。それが昂じて社会的亀裂が走り、殺気が流れ、脅迫行為が頻発、遂には襲撃事件が連続して勃発した。
その結果、多数の死傷者が出、治安当局が戦勝派を数千人も検挙するという重大事態となった。
しかも一方で詐欺師たちが跳梁跋扈、さらに狂的な行動をする集団が幾つも現れた」
というのが、その危機の内容である。
ブラジル日系社会史上、最も異様であったこの現象を、ひっくるめて表現すれば、大騒乱とでもいう以外あるまい。
その大騒乱が一応鎮静するまでには、ほぼ十年という歳月がかかってしまうことになるが、火種の多くは戦前・戦中に蒔かれていた。
それは前章までに記したことの中に含まれている。つまり日系社会の歴史の水流の中で発生したことである。
右の大騒乱の内、なんとも凄まじかったのが、連続襲撃事件である。殆どが拳銃を使用してのそれで、襲撃は百件以上、死者は二十数人、負傷者は百人近くを数えた…とする資料もある。
ただし、その総てに関する詳細な記録は存在しない。
事件の内容は、次章以降で記すが、百件以上という襲撃の一部である。
なお事件は終戦の翌一九四六年三月に始まり、明くる年の一月に終わっている。
では、何故、そんな凄まじいことが起きたのか?
その点については、以後、半世紀以上、多くの人々に信じられ続けた通説がある。
「戦勝派の最大組織であった臣道連盟が内部に特攻隊というテロ組織をつくり、敗北を認める敗戦派の主要人物を襲撃、殺傷させた」という説である。
臣道連盟については前章で触れたが、終戦後は戦勝を唱え、その組織を急拡大していた。
しかし何のための襲撃だったのか?
当時、時局=敗戦=認識の啓蒙運動が起こっており、その推進者の口を封じるためであったという。
以上が通説の要点である。
事実がその通りであったかどうかは、改めて考えるとして、襲撃が始まった時、認識運動の推進者たちは、警察の協力を求めて反撃に出た。
警察は、臣道連盟を主とする戦勝派の大規模な狩り込み作戦を 展開した。
狩り込まれた人々の多くは事件とは無関係であった。が、辱め、虐待、拷問、理不尽な取調べを受けた。それが原因で死亡、あるいは後遺症で苦しんだ人も少なくない。
敗戦派がつくった自警団と警官隊が、戦勝派の強硬分子を追い詰め、銃撃戦をし、死傷者が出たこともある。
当時、ポルトガル語の新聞は、この抗争をカーゾ・デ・シンドウレンメイ=臣道連盟事件=と名付け、センセーショナルに報道を続けた。
自国内に居住する東洋から来た異人種が、不可思議な抗争を繰り返し、血を流し続け、警察が派手に狩り込みをしているのである。記者や編集者を興奮させるネタであったろう。(つづく)