
1世初の有名ブラジル映画女優Mii Saki
女優で番組プロデューサー、ジャーナリストの田中みさきさん(芸名「Mii Saki」69歳、東京都出身、https://www.instagram.com/miisaki_production/)が、パウリスタ新聞やサンパウロ新聞でカメラマンや記者として活躍した父田中敬吾さんが生前に撮り溜めた写真展の開催、父のドキュメンタリー映画制作の取材のために、4月15日に編集部を訪問した。ブラジル社会で大活躍をしてコロニアとは縁遠い存在だったので、てっきり2世だとばかり思っていた彼女が、1世だと知って驚いた。
日系2世として初めてブラジルで女優として成功したのが三宅ローザさんなら、1世としては田中みさきさんだろう。1956年3月に東京都で生まれ、親に連れられて7歳の時、1964年にブラジル移住。その11年後の18歳の時、1974年に早くも映画『Macho e Fêmea』(オディ・フラガ監督)デビューを果たし、以来24本もの長短編ブラジル映画に出演している。
彼女の特徴は、1970年に社会的に流行したポルノシャンシャーダ(Pornochanchada)という分野の映画で、有名監督に起用される傾向が強かったことだ。初期の代表作は映画『A Força dos Sentidos』(ジン・ガヘット監督、1979年)。伝奇小説家ラブクラフト的な要素を含んだ興味深いミステリー映画で、軍政に挑戦するようにエロス表現を含んだ先鋭的な作品として大きな話題を呼び、当時の日系社会でも波紋を呼んだ。
『O Império do Desejo』(カルロス・ライヘンバック監督、1981年)、コメディ映画『E a Vaca Foi Para o Brejo』(ジョゼ・アダルト・カルドゾ監督、1981年)など立て続けに話題作に出演した。
オディ・フラガ、ジャン・ギャレット、ジョン・ドゥー、ファウジ・マンスール、フアン・バホン、アントニオ・メリアンデ、ジャイール・コレイア、カルロス・ライヘンバッハなどいずれも当時を代表する監督ばかりだ。
出演は25歳まで女性として最も美しい時期に集中している。特に1978年には5本、1980年には7本も出演するなど女優としての絶頂期を迎えていた。

軍政時代に異彩を放った映画ジャンル、ポルノシャンシャーダ
ポルノシャンシャーダの「シャンシャーダ」という言葉は、「バーレスク」として国際的に知られているジャンルのブラジル版だ。素朴で大衆的なユーモアを伴うミュージカルコメディショーまたは映画であり、大衆的であるがゆえに、エロチックな要素は欠かせないもので、息も詰まる軍政時代において、文化的息抜きの娯楽、話題を呼ぶ前衛的な映像表現を競う芸術として、70年代には大変な人気を博した。
ポルノシャンシャーダは主にサンパウロ市で映画制作会社や配給会社が当時集中していたルス区ボッカ・ド・リッショ地区で低制作費で生産され、特に1972年から1978年にかけて国内映画市場の黄金時代を現出する立役者となった。1970年から1975年の間に興行収入トップ25に入った映画のうち9本はポルノシャンシャーダ映画だった。
「ブラジル映画の中の女性」サイト(https://www.mulheresdocinemabrasileiro.com.br/site/entrevistas_depoimentos/visualiza/179/Mii-Saki-Misaki-Tanaka)の中で、みさきさんは《ボカ・ド・リショの偉大なミューズ(女神)の一人》と表現されている。

誤解を避けるために説明すれと、この「ポルノシャンシャーダ」というジャンルは、今で言えば「前衛的なエロコメディ映画」とか「アバンキャルドな官能映画」という感じだろうか。いわゆる激しい性交シーンを売り物にしたハードポルノとは異なり、あくまでストーリーやアイデアを重視して、エロチックなシーンは雰囲気で見せるもので、直接的ではなく、「魅力の一つ」だが「中心ではない」という位置付けだ。
コラム子の中では、70年代のボッカ・ド・リッショは、同年代の新宿に似ていると思う。60年代安保闘争で強い無力感を感じていた若者たちの中から、フォークゲリラ、アングラ音楽、アングラ演劇や舞踏、新しい芸術の表現を試みるアーティストが集まっていた。既成権力に対抗するカウンターカルチャーが活発で、自由な表現を求める若者たちの拠点となり、多くの創造的なライフスタイルが生まれた場所だった。
そのブラジルにおける映画版が、軍政に対するカウンターカルチャーとしてのボッカ・ド・リッショではなかったかと思う。「カウンターカルチャーの女神」が日本人移民女性であるということ自体、興味深い。
1985年に軍政が崩壊し、ハードポルノが解禁になるとポルノシャンシャーダは一気に衰退し、ポルノシャンシャーダ女優はハードポルノ出演を拒否した。この時代の映画をみて育った世代には、「セクシーで可愛い日本人女性と言えば、みさきさん」というぐらいのインパクトがあったのではないか。

等身大の娘を理解していた父田中敬吾
みさきさんの父田中敬吾さんは1931年京城生まれ、13歳で引き上げとなり、母の実家のある静岡で幼少期を過ごす。20歳で法務省試験を受けて刑務所看守となり、戦犯が収容されていた巣鴨刑務所でも3年間勤務。当時から写真が好きで、それが嵩じて1964年に渡伯してパウリスタ新聞でカメラマンを務める。
1967年6月、皇太子殿下(現上皇陛下)が首都ブラジリアのホテルを、お忍びで早朝抜け出して近くのアマゾン支流水源を見に行った際、記者とカメラマンの敬吾さんが後ろを付けて行って川で撮影した写真は、通信社を通じて日本の新聞社に配信されて有名になった。1980年にサンパウロ新聞に移り、デスクまで務めた。

みさきさんは渡伯時7歳だった。「母の決断でした。本当は世界旅行がしたかったけど、まずは知り合いのいるブラジルへ行こうと。小学校2年1学期まで勉強してブラジルへ。友人との別れでは本当に泣きました。ポルトガル語全くわからないし…。母はブラジルの自由さが気に入りましたが、父も私も最初の頃は『日本に帰りたい』ばかり言っていました。母はブラジルが大好きで、サンパウロも大好きでした。だから、他の国を訪れるよりも、ここに留まりたいと思ったのです。父も母の意見を受け入れました。私も今はブラジルが大好きです」と笑顔を浮かべた。

みさきさんは苦労しつつも無事に当地の学校に適応し、サンパウロ大学コミュニケーション学部を卒業。在学中からテレビのダンサーとしてスタートし、映画やCMに引っ張りだこになるなど、日本人初の有名女優になった。
多分、1世の発言力が強く保守的だった日系社会において、みさきさんの存在はあまりに魅力的で、文化的に尖りすぎていて、居場所を確保することは難しかったようだ。当時コロニアで発行されていた『セクロ』という雑誌ではポルノ女優としてセンセーショナルに記事に扱われるなど、当時の記者の側にブラジル社会に対する理解が足りない部分もあった。
みさきさんは「今までコロニアにはほとんど関わって来なかった」と言葉少なげに語った。「お父さんのことは大好きでした。とても優しいお父さんで、『日系人とは結婚するな』『ブラジルに居るんだから、ブラジル人と仲良くなれ』とよく言われました」と、側からは厳格で保守的な邦字紙記者に見えた敬吾さんの、意外にリベラルな一面を告白した。

若くしてブラジル映画界で〝女神〟に祭り上げられた日本人女優みさきさん。等身大の彼女を理解していた数少ない日本人男性は、父敬吾さんだったのかもしれない。
大学卒業後はテレビ番組制作側に周るなど、メディア関係で多彩な活動を繰り広げてきた。TVクルツーラ局で制作、1991年から95年までNHKで子ども向け番組などにディレクターとして参加、1996年にはブラジルに戻ってグローボ局でレポーターなどとしても働いた。
1世で、ここまでブラジル映画界やテレビ業界に食い込んだ人材は、おそらく他にはいないだろう。みさきさんは「今年中にはドキュメンタリーを完成させたい。父を知っている人が探したい」と意気込んだ。(深)