小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=93

 母は私を孕もった時、それはひどい悪阻で医師をてこずらせ、かろうじて妊娠中絶を免れたのだそうだ。その時、母は初めて肋膜を患ったことを父に告げ、父をひどく落膽させた。事前に知っていたら妊娠調節の方法もあったろうに、と母をなじり、母はそういう告白は結婚の妨げになるだけだったから、と二人は一晩暗い気持ちで過した。母が父に病名を打ち明けられなかったように、父も家族に知らせなかった。その頃肋膜炎は肺結核の一歩手前として伝染を惧れられ、そういう病人は隔離して暮らすほど危険視されていた。
 病弱な母が、私を何とか産んでくれたのは医学のたまものである。出産に母の体力がもちきれず、陣痛半ばで引きつけ、そのまま帝王切開によって私が生まれた。
 医術の発達していない昔だったら二十四歳の母と共に私もこの世にいなかっただろう。或いは切開によって母を犠牲にし、私だけが育てられたかもしれない。
 そういう昔だったら母は二〇何歳で、或いはそれ以前に肋膜炎でこの世を去る身だったかもしれないものを、四〇歳まで生き長らえたことを神に感謝しなければならないわけだ。四〇歳になったからってどうしてこれでいいと言えるだろう。母はまだまだ私にとって大事な指針なのだ。
 
(四)
 
 医師の勧めで手術に同意した母ではあったが、翌日になっても入院するとは言わなかった。私が朝のコーヒーを淹れ、登校時間になっても、頭から布団を被っていた。時どき布団が動くから寝入っていないことが解る。起きたらコーヒーを飲めるようにして私は家をでた。
 学校への往還、友人と遊んでいる時、バレーの試合やパーティの時などにも、私は衰弱した母の面影を想い浮かべる。日毎衰え、断末魔の苦悶を心に描くと、もう友人と競技に夢中になるどころではない。じぃんと胸が熱くなり、眼を閉じて心に十字を切った。周囲の友人に悟られたくない。しかし私の動作は沈みがちなため、誰彼が失恋したのかとか、メンスがあるのかと聞いたりした。
 メンスで思い出したが、両親を早く亡くした母は、初潮の到来などてんで知らず、知っていても予備知識が全然なくて、何か大病に冒された如く戸惑い兄に告げるのも気後れがし、苦痛を何日も我慢していた。ある女友だちにそのことを話し、その期間の手当て法を教わったのだそうだ。

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