戦後移住者の森田幸子さん(81歳、兵庫県出身)が自分の日記手記を神戸市に住む兄・市位清(いちい・きよし)さんに送ったところ、兄は2020年に日本で『ブラジル60年(幸子さんの日記)』として製本。これが森田さんの故郷兵庫県多可町(人口1万8千人余)の町民文芸誌『たかの風』(年1回発行)第16号(20年3月発行)に特別寄稿として掲載された。それに対して町内外の読者から大きな反響があり、同誌編集委員会に「ぜひ森田さんの続編を読みたい。その後どうしておられるのか、元気で過ごされているのか」等の声が寄せられた。そこで森田さんに続編をお願いすることになり、17号(3月)で次の文章が掲載された。森田さんと同誌編集委員会の許可をもらい、ここに転載する。
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一九九八年(平成十年)三月、日本から、二女、晴美の結婚式招待状が送られてきた。私の健康状態は、いつ爆発するか、いつも体に爆弾を抱えている状態であった。クリニカ(診療所)の医者にかかっており、日本に行ける体ではなかった。だが私は思った。今行かなければ、手術後は行けるか、生きているか、保証もなかった。
私は行くことに決めた荷物は土産全部、娘夫婦が用意してくれた。飛行機にも座れない状態だったので、子どもが海で使う浮き袋を、友達がわざわざ用意してくれた。空気を入れてその上に座り、下りた時に空気を抜いておく。重い荷物も持てない。
でも決めた。五月の連休に、結婚式とその後に里帰り。母の十三年忌、祖母の百年忌と父の三十六年忌を兼ねて法事をすること。何があっても行くことを決めた。
三重県の結婚式場での素晴らしい披露宴に兄弟たちも来てくれていた。三十六年ぶりの再会だった。豪華な披露宴で、娘は三回も衣装を替え、私も初めて黒留袖を着せてもらった。その時、私はノイバのレンブランサ(花嫁の記念品)を造ってブラジルから持って行った。
無事に披露宴も終わり、兄弟が出席していたので、その足で兄の車で滋賀県の弟宅へ。一晩泊めてもらって、生まれ故郷の大屋に着いた。三十六年ぶりの八千代町(旧野間谷村)大屋だった。
名の如く、野と谷間。笠形山を仰いで四方に谷間が分かれ、今は美しく舗装された道路。私が渡航した翌年(昭和三十八年)、大屋は、百年も起きたことのない大洪水となり、我が家の堤防が決壊して橋は流され、大きな石がゴロゴロと田に流れこんだと聞く。
母は床上浸水する中で、ご先祖様の位牌を抱え、隣の高台の家に飛び込んだそうだ。危機一髪で堤防が決壊し、我が家に流れ込む洪水は、我が家とは反対側の田に流れ込んだ。母はこれもご先祖様が守ってくださったと感謝しつつ、先祖代々11代目の主婦としてお祀りしてきた。
母の亡き後は、兄のお嫁さんが、母がしたと同じ作法で、お正月やお盆には親族を迎え、ご先祖様を何より大事にしてくれている。
故郷のウグイスの鳴き声に両親を想う
翌日、朝露を踏みながら家の周りを歩いた。昔の家はなく、新しい大きな家が建っていたにも関わらず、野に咲く草木はそのまま…。蓬(よもぎ)が芽を出し、お茶の新芽や山椒の芽が、朝八時の太陽を受けながら光り輝いていた。その時は姿が見えないが、ウグイスが泣き、私の里帰りを「ウグイスの谷渡り」で祝ってくれた。
その日一日中、台所の裏で鳴いていたウグイスは両親だったのではないかと思った。木の葉が揺れているが、ウグイスの姿は見えなかった。(幸子、幸子)と言いながら、亡くなっていった両親もどれほど気にかけてくれていたことか。
母の十三年忌、祖母の百年忌、父の三十六年忌に私が参加出来たことを喜んでウグイスになり、私の里帰り喜んでくれたと思っている。
実家の庭はとても美しく、花は色々咲き乱れていた。南天の木、モミジの木、イチジクの木などはその昔のままであった。大きな水車は無くなっていた。片方に六つ、片方に六つ、合わせて十二あった臼。ゴットン、ゴットンの音と共に懐かしく思い出す(我が家では昔から乾燥した杉の葉っぱを臼でひき、粉にして線香の元を作っていた)。
私たちが寝起きした二階の部屋には誰も住んでいないらしい。大きな提灯のほどのスズメバチの巣、あれに刺されたらどうなるか。恐ろしくなった田舎の空気は少しも変わっていなかった。白い梨の花…。仏間で、ご先祖の方々や亡き両親と共に寝た。
翌日はお坊さんを招いての法事、お墓参り、夜は同窓会。あの当時(昭和十七年、一九四二年)は、産めよ増やせよの時代だった。大屋部落の同級生(男十人、女十人)全員が集まってくれた。年こそ行っているが、九年間共に学校に通った仲間で、嬉しかった。その時、金の首飾りをレンブラント(記念)として贈ってもらった。今でもその首飾りを着ければ貴婦人になった気持ちになるお守りである。
こうして無事に務めた一カ月の旅を終えて、ブラジルに帰って来た。
別れの盃をブルブル振るわせて男泣きした父
あの里帰りの時、長兄さんは「旦那を捨てて日本で医者に見てもらったらどうか。ブラジルに帰るな」とまで言ってくれた。一カ月のスケジュールをよく務められたと思っている。今思えば、勇気を出し、腹を決めて訪日したこと、私には大きな意味があったと思っている。これで両親に親不孝を許してもらえたのではないかと、何より私の肩の荷が軽くなった。
あの三十六年前、仏間で最後の別れを告げた時、父は別れの盃を持った手をブルブル震わせ、男泣きの涙を流した。最後の別れ…。この年、親になって父の心がわかる。
私がブラジルに着いて、初めて主人が見せてくれた父からの手紙は、「貴方一人を頼ってブラジルに行く娘・幸子、よろしくお願いします」と結んであった。もう一通「今日、二月二日、神戸を発ちました。末永く幸せにお暮らしください」
誰かにブラジルの住所を書いてもらったのだろう、父の心を痛いほど感じた。あの時、私に二十五万円を持たせてくれたのだった。
「コチア青年」五十周年まで私は生きてはいないだろうと思って、「コチア青年」四十周年に、私は内緒で申し込み、新聞に夫婦の名前を載せていただいた。
月日が過ぎて、私も八十歳。孫も保育園、やっと自分の時間が持てるようになった。私も、少しでも人様に喜んでいただける私になりたい。
二年前には、日本の兄が、私が綴って送った文を小さな本にして送ってくれた。あのか弱い乙女が地球の反対側ブラジルでの貧乏暮らし、よくぞ頑張ってくれたとの意が込められていた。
愚痴を話す人もいない強く強く前を向くしかなかった。ありがたいことに自然の空気が私を激励してくれた。
日本で働く子供たちが、私たちの結婚三十年を祝って贈ってくれた家に今住んでいる。二月の私の誕生日、これまで住んでいたコチアでは必ず山百合が、ススキの穂の間から微笑んでくれた。小川のせせらぎが一日の疲れを癒し、心を清めてくれた。野に咲くタンポポの花が(頑張るんですよ)と勇気づけてくれた。故郷の谷間での生活は一生忘れないだろう。
タンポポの花は、昭和、平成、令和と生きてきた私を、これまで励まし続けてくれた。花びらがあの人の方に、あの人の頭に、あの人の足にも希望を送り、日本にもブラジルにも、子孫を残してくれることだろう。
あのか弱い乙女が昭和、平成、令和と生きてきた。私は日本の大和撫子でありたいと願う。花は咲き、散って行くのである。
※(注)「コチア青年」とは、1955年から1967年まで、コチア産業協同組合が受け入れ先になって、ブラジル政府移民局との間で結ばれた協定のもとに、日本国籍を有する独身青年の移民政策の呼称である。
【たかの風編集委員会より】兄の市位さんが、令和四年夏に伝えてくれた幸子さんの近況は次の通り。
子供は八人(ブラジル在住五人、日本在住三人)あり、孫は十人、ひ孫は四人。ご主人の森田満雄さんを2011年に見送り、現在は次男夫婦と一緒に、サンパウロで暮らしているとのこと。
なお市位さんは、令和二年十月、妹の幸子さんから届けられた日記・手記をパソコンで整理して、『幸子さんの日記(ブラジル移住五十八年の回想)』として、小冊書にまとめ、関係者に配布された。
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