《特別寄稿》大自然に魅了された博物学者たち=19世紀のブラジル動植物探検の旅=サンパウロ市ビラ・カロン区在住 毛利律子

マルティウスとスピックス

 現在、NHK連続テレビ小説『らんまん』で日本の近代植物分類学の権威、牧野富太郎博士(1862―1957)の生涯が放送されている。牧野博士の生まれる半世紀ほど前に、世界的に、ブラジルの豊かな自然への学術的関心を呼び起こした最初の人物たちがいた。
 ドイツ人医師で植物学者のカール・フリードリヒ・フィリップ・フォン・マルティウス(1794―1868年)と、動物学者ヨハン・バプティスト・スピックス(1781―1826年)である(以下、二人の名前のフォンという称号は省略する)。
 19世紀のヨーロッパ人にとってブラジルがどれほど魅力的な場所であったことか。好奇心旺盛な二人の学者は、目前に洋々と広がる、まったく新しい大陸の風景に圧倒され、心を奪われた。彼らは入国後すぐに地図作成に着手し、地理的および地質調査の実施はもちろんのこと、地図を隅々まで記述し文書化した。
 彼らの好奇心は、この豊かで素晴らしい土地の隅々、木々の葉っぱ一枚まで見逃さなかった。これらの記述は重要な自然研究記録となり、二人による「ブラジル旅行Viagem por Brasil 1817-1820」は、おそらくブラジル植物相、動物相と、それらの美しい写実画は、最も詳細且つ、最も興味深い書物となって残された。

遠征の始まり

ヨハン・バプティスト・スピックス(Public domain, via Wikimedia Commons)

 1815年、25歳の動物学者スピックスと20歳のマルティウス、および他の数人の博物学者が、オーストリア皇室による、ブラジルへの公式遠征に参加するために選ばれた。それは次のような事情によるものだった。
 ブラジルは1500年にポルトガルの植民地となり、ブラジルの領土は19世紀初頭まで厳格な植民地支配下にあり、国の天然資源を他国から隠すことを目的としていた。
 1808年、ボナパルト・ナポレオンのポルトガル侵攻により、ポルトガル王室はリオ・デ・ジャネイロへの再定住を余儀なくされた。当時ブラジルに住んでいたポルトガル皇太子、後のブラジル皇帝ドン・ペドロ1世とオーストリアのマリア・レオポルディナ大公妃の結婚であった。
 マルティウスとスピックスは公妃の側近に選ばれた。同時に計画されたのが、政治的理由に加えて、当時のバイエルン王国皇帝マクシミリアン1世の言葉を借りれば、「このオーストリア・ドイツ芸術使節団は、科学と人類の利益のために科学調査を行うことが目的」のブラジル動植物調査遠征であった。それは王室の支援なくして実行されることのない一大プロジェクトであった。
 リオ・デ・ジャネイロに到着した一行は、ポルトガル起源で部分的には先住民のメロディーからインスピレーションを受けた歌と踊りで歓迎された。黒人は官能的な身振りで踊り、その優れた才能に驚かされた。庶民にとってギターは人気の楽器でメロディーは単調であったが、ヨーロッパ人の心に響いた。彼らはいく先々でこのような歓迎を受けた。
 マルティウスとスピックスは、1817年11月に、オーストリアの画家トーマス・エンダーを同伴し、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロ、ミナス・ジェライス、バイーア、ペルナンブコ、ピアウイ、マラニョン、パラー、アマゾナスを訪れ、3年間で1万4000キロ以上を共に歩き、自然探求を徹底する壮大な旅を実行した。
 二人の博物学者の豊かな遺産は、専門分野に止まらず、出会った人々の生活習慣、そして先住民、黒人、混血、白人の背景を持つ人々が多文化の大釜の中で実に自然に、平和に、融合して暮らしている社会構成に感銘した。
 マナウスからリオ・ネグロ川を上った時は、ジュリ族とミラーニャ族という、2つの異なる部族出身の2人の先住民の子供たちに出会い、ヨハネスとイザベラと名付けるほど、地域の人々とすぐに打ち解け、音楽や踊りを楽しんだ。
 旅全体を通じて、彼らは動物や植物だけでなく、科学的に興味深いあらゆるものを収集した。先住民族とその習慣の調査、巨大なベンデゴ隕石も調査、サンタナ層から魚の化石を発見した。
 旅程は順調に運び、ミナス・ジェライス州のオウロ・プレットとジアマンチーナで、ダイヤモンド採掘を調査。そこからサルバドールの沿岸部を辿り、北東部を目指した。
 二人はマナウスで別れ、マルティウスはコロンビア国境付近を辿り、スピックスが隣国ペルーとベネズエラの辺境へ旅立った。彼らは道中で出会った植物や動物から人々に至るまで、観察できるすべてのものを書き残した。そして、1820年12月に二人はリオ・デ・ジャネイロに帰り、ドイツ・ミュンヘンに戻ったのである。
 しかし、道程を進むにつれ、二人を待ち受けていたのは厄介な熱帯病であった。いくつかの深刻な病気に苦しみ、極度の乾燥による喉の渇きと痛み、奇妙な皮膚病に悩まされた。それらはシャーガス病か、不明の熱帯病であったといわれる。

マルティウスとスピックスの旅程(1817―1820)

スピックスとマルティウスの成果

 ヨハン・バプティスト・スピックスは、ドイツの田舎町の庶民であり、11人兄弟の7番目として生まれた。生家は、2004年からスピックス博物館の敷地にあり一般公開されている。
 スピックスは、6500種の植物、2700種の昆虫、85種の哺乳類、350種の鳥類、150種の両生類、116種の魚類を持ち帰った。これらは現在ミュンヘンにあるミュンヘン動物学収集博物館の所蔵品となっている。彼はアオコンゴウ・インコを発見し、英名のSpix’s Macawにその名を残しているが、他にも彼の名前の付いた動物名がある。
 スピックスの精力的な研究は、アマゾンで罹患した熱帯病のため、継続を断念してドイツに戻ることになったが、ブラジルでの素晴らしい功績が評価され、光栄にもナイト爵位を授与された。高い身分の出身ではなかったが、それ以来、ヨハン・フォン・スピックスと呼ばれるようになった。「フォン」はこの貴族の称号を指している。
 彼の人類学的記述は、その後の多くの研究者に影響を与え、現在でも基礎研究で欠かせない領域である。スピックスの死を受けて、マルティウスは旅行報告書を出版した。享年45歳であった。

マルティウスのFlora brasiliensis『ブラジルの植物』

Illustration of Caryocar glabrum(Carl Friedrich Philipp von Martius (1794-1868), August Wilhelm Eichler (1839-1887), Ignaz Urban (1848-1931), Public domain, via Wikimedia Commons)

 カール・フリードリヒ・フィリップ・フォン・マルティウス(1794―1868年)は、19世紀で最も有名な博物学者の一人である。ブラジル探検の期間中に、彼は数万の植物標本を収集し、それらは現在ドイツのミュンヘン国立植物園に寄託されているが、残念ながらこの資料の複製はブラジルの研究所にはほとんど寄託されていない。ブラジリア図書館に、作品のほぼすべてのコピーが保管されているだけだという。
 彼の作品は、60年以上の月日と外国から加わった66人の植物学者の努力によって完成した。著作は40部に分かれた15巻から構成され、2万2267種の植物に関する情報が含まれている。
 実際、二人の研究者の旅は、現在に至るまでブラジルの動植物の最も完成した成果を提供した。彼らは、現在までに知られているブラジルの植物種のほぼ半数を目録化することに加えて、ブラジルの生物群系を分類するための基盤を立ち上げたのである。それは、1817年から1820年までのわずか3年間で実現させた膨大な科学的成果であった。
 マルティウスの研究の影響は科学の分野を超えており、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの文学的創作に大きく貢献した。植物学の研究に惹かれたゲーテはマルティウスと文通が始まった。マルティウスは、ブラジル旅行から帰国した際にはゼニアオイにゲーテの名前を命名して贈呈したところ、ゲーテは感激し、その後、二人はワイマールで何度か会った。
 交換した手紙が十数通残されている。ゲーテは、有名な悲劇詩『ファウスト』の第二部を執筆中に『フローラ・ブラジリエンシス』を読んだと伝わり、そこに登場する植物の比喩に、ゲーテの強い関心がうかがえる。

マルティウスはヤシの木の専門家でもあった

Illustration of Cissampelos glaberrima(Carl Friedrich Philipp von Martius (1794-1868), August Wilhelm Eichler (1839-1887), Public domain, via Wikimedia Commons)

 マルティウスはブラジルの植物に関する他の著作もいくつか出版した。アマゾンを訪れたほとんどの植物学者と同様に、特にヤシの木に注目し、30年近くをヤシの研究に費やした。彼は著書『Historia Naturalis Palmarum』(1823-1853)の中で、冒頭部分には、世界中のヤシの木に関する最新の知識が含まれており、ヤシ科の分類を提供する最初の試みのひとつであった。
 パルマルム自然史の第2部においてマルティウスは、アマゾンで観察したヤシの木を贅沢なカラープレートで説明し、図解した。その中には新種として85種が含まれており、何百もの新種のヤシについて説明されている。
 
薬用植物の編纂

 フォン・マルティウスの薬用植物本には、合計92種類のアマゾン原産の薬用種が記録されている。これらの記述には、植物の117の異なる医療用途が記載された。主な用途は皮膚疾患の治療で、次に胃腸疾患、泌尿器疾患、呼吸器疾患の治療であった。下剤や解熱剤として記録された種はほとんどなく、この結果は他の博物学者の観察とは異なる。(「民族薬理学ジャーナル147巻 1号、2013」)
 マルティウスは、1868年12月15日に肺疾患のためドイツのミュンヘンで死去した。

今後の課題としての、インターネット上での公開プロジェクト

 今日では、「マルティウスの植物標本とデジタル・フローラ・ブラジリエンシスを統合するプロトタイプ画像サーバー」プロジェクトがインターネット上に公開され、『ブラジルの植物』のテキストや図版とともにデータベース化されている。標本、画像、プレート、テキストは相互リンクされており、現在インターネット上で誰でも自由にアクセスすることができる。
 実際のところ、Flora Brasiliensis は、主にヨーロッパの研究所に保管されており、ブラジルで複製が見つかったのはごくわずかである。その後の巻には他のコレクションからの研究が含まれていたが、やはりブラジルには重複した標本はほとんど残っていなかった。
 このため、ブラジルの科学者にとって研究は困難で、歴史的な標本の貸し出しが許可されていない、または非常にまれにしか許可されないという学芸員の懸念により、研究アクセスの手段が繰り返し検討されてきた。
 残念なことに、このような状況は、Flora Brasiliensis に引用されている標本や模式標本に簡単にアクセスできないブラジルや、国境を接する国々の植物学者にとって研究進展の妨げとなっていたのである。
 結局のところ、分類学的研究には、歴史的コレクションへのアクセスが非常に必要だという認識で、ブラジル、北米、ヨーロッパの植物標本、特にベルギー国立植物園、オランダ国立植物園、ミュンヘン国立植物園植物園の間で進行中のネットワーク作りの取り組みが強化されている。
 その最終目標は、ミュンヘンとライデンで始まったマルティウスのコレクションのデジタル化を拡大し、Flora Brasiliensisを含む多くの重要なイラスト作品へのリンクを構築、開発することが当面の課題となっている。
【参考文献】
http://projects.bebif.be/enbi/martius/
https://fapesp.br/publicacoes/braziliannature/brazilian_nature_japanese.pdf
「ドナウの首都レーゲンスブルク」木村直司NTT出版

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