《特別寄稿》「夢を叶えて生きる」=気が付けばブラジルにて61年=岩崎 正三(鹿児島大学漁業学科 昭和28年卒)

満船してサントス港に向け帰港中の第5明石丸
岩崎 正三(しょうぞう)

 【鹿児島大学水産学部同窓会誌「水魚」71号より】私は、昭和5年(1930)1月31日に、山口県萩市で生まれ、小学生の頃から魚をとるのが上手であったので大人になったら漁船に乗って魚を一杯とって社会に貢献しょうと思い、そのために漁労長(漁船の総指揮官)になる夢を持っていました。
 その夢を叶えるために20歳の時、鹿児島大学水産学部に入学し、漁業学科漁業学専攻で学んだ。昭和28年(1953)3月18日に23歳で同校を卒業。そして魚とり一筋に延べ41年8カ月漁船に乗り、内35
年4カ月漁労長を務めた。
 南半球で一番大きな都市のサンパウロ(人口1200万人)の港町としてのサントス(都市圏人口147万人)にて仕事をし生活して来ました。今年90歳を迎え魚水会から魚水誌への出筆依頼があり、この機会に私の漁船乗船記録を書いてみようと思い、記憶をたどりながら筆を取らせていただきました。

私の乗船経歴とその概要

《1》大洋漁業㈱(現マルハニチロ㈱)長崎支社、昭和28年(1953)4月15日より昭和34年(1959)8月16日まで6年4カ月―勤務

 水産学部を卒業しすぐに大洋漁業㈱長崎支社に入社し、4月15日より見習航海士として乗船。学校出であるということから乗組員から大変な意地悪をされたが、何糞と頑張り25歳で船長になり昭和34年(1959)29歳で念願の漁労長となった。
 丁度、その折に、昭和32年(1957)3月に発足したブラジルのサントス大洋漁業㈱の方に長崎支社より新造船第2・第3さんとす丸(103t)をブラジルにもって行くことになり、私は第3さんとす丸の漁労長として大勢の人々に見送られ、昭和34年(1959)6月8日に長崎港を出港。
 その時の第2さんとす丸の漁労長は故藤崎隆さん(24漁=昭和24年漁業科卒)でした。太平洋を100tの船で渡り69日目の8月16日にサントス港に着きました。同じ時に下関より第5・第6明石丸(旧船101t)も出港し、私たちより一週間後にサントス港に着きました。

《2》サントス大洋漁業(サントス)

 昭和34年(1959)8月17日より昭和52年(1977)10月18日まで18年2カ月勤務

 サントス大洋漁業では既に、第33・第35明石丸、第35東海丸、興成丸(150t)、第15東丸(350トン)、第15東海丸(100t)の6隻が動いていました。従って、昭和34年(1959)9月より、底曳き船7隻と鮪延縄船3隻合計10隻での操業となりました。
 日本の大洋より10年契約で派遣された船員は、昭和44年(1969)に契約が終わりましたので、帰国希望者は帰り、残留希望者は残ることになりました。私を含め37名が残りました。
 そして、サントス大洋漁業は、昭和52年(1977)10月18日に閉社し、操業していた10隻の船を残して日本に引き揚げました。

※当時の現地のサントス大洋漁業㈱の所属船

2艘曳底曳き船

 6組は昭和32年から昭和44年まで下関や長崎より第33・第35明石丸(100t)、第33・第35東海丸(100t)、第2・第3さんとす丸(103t)、第5・第6明石丸(101t)、第2第3大洋丸(100t)、第123・125東海丸(100t)

鮪延縄船

 3隻が昭和32年(1957)11月より昭和34年(1959)6月長崎や三崎より興成丸(150t)第15東丸(350t)、第15東海丸(100t)以上の15隻、サントス大洋漁業の閉社後、使われた船は8隻のみ。
 第33・第35東海丸、第2さんとす丸、第15東海丸の4隻は同社で使用中に座礁放棄。
 第15東丸は昭和44年(1969)日本に廻港し興成丸と第3さんとす丸は同社閉社後停船放棄されました。

※大洋漁業(株)の派遣船員としてサントス大洋漁業(株)で働いていた水産学部同窓生は下記の4名
【藤崎隆氏】(24漁)(第2さんとす丸漁労長)船座礁放棄の為、昭和39年(1964)帰国、平成25年(2013)3月8日享年84歳にて日本にて逝去。
【坂本英一氏】(29漁)(第2さんとす丸船長)船座礁放棄の為、昭和39年(1964)帰国、(平成5年(1993)8月享年64歳にて日本にて逝去)
【上野文義氏】(31漁)(第3さんとす丸航海士)昭和44年(1969)の時点の残留組(昭和56年(1981)7月1日、享年49歳にて訪日中逝去)
【森尚士氏】(31漁)(第15東丸航海士)昭和44年(1969)の時点の残留組(平成25年(2013)5月15日、享年80歳にてサントスにて逝去)

《3》K(春日)&S(清水)水産会社(サントス)にて昭和52年(1977)10月20日より昭和54年(1979)4月5日まで1年6カ月勤務

 サントス大洋業業㈱が閉社して直ぐ昭和52年(1977)10月20日同じ場所に新しくK(春日)&S(清水)水産会社が発足して、残された船の中、2艘曳き底曳き船、第33・第35明石丸、第5・第6明石丸、第2・第3大洋丸、第123・第125東海丸の4組にて操業を始める。

サンパウロとサントスの位置

《4》水産会社ペスカール(リオ・グランデ・ド・スール)にて昭和54年(1979)4月6日より昭和58年(1983)7月14日まで4年3カ月勤務

 昭和54年(1979)4月リオ・グランデ・ド・スールにあるペスカール水産会社が日本の漁船4隻をチャーターしたので、そこからの要請により、私は転社することになりました。
 その折に野澤弘司氏(36製)が陸上管理の代表として奮闘しました。船は青森の個人会社のものでトロール船第23富丸(100t)、第38りゅうけい丸(200t)の2隻とマグロはえ縄船第3大平丸(150t)、第8南海丸(300t)の2隻でした。

《5》 河合水産(サントス)にて昭和58年(1983)7月15日より平成7年(1995)1月15日まで11年5カ月勤務

 倒産寸前になっていたサントスのK&S水産会社より8隻の底曳き船を買取り全船をマグロはえ縄船に改装して河合水産と言う新しい会社が発足しました。船名も第101から第108東進丸と改名し、私は当社の要請により転社しマグロはえ縄船の漁労長を務めました。これを最後に私は船から降りて現役を退職し年金生活に入りました。丁度65歳でした。
※ まったく刺身を食べなかった現地の人達は日本人が若く見え、長生きをしているのは刺身を食べているからだと思うようになり、刺身を食べることに関心を持ち始め、次第に刺身を食べるようになった。魚の売れ行きの向上と食文化が普及しました。(私達がブラシルに着いた頃は握り寿司店は無かったのが、どんどん増えました)現役時代はブラジルの漁業発展の為と国民の健康の為に大いに役立つことが出来たと思って大変満足しています。
※ 昭和44年(1969)9月にはブラジルの永住権を取得しブラジルに骨を埋める覚悟も出来ました。
※ 平成30年(2018)11月30日に長く連れ添った妻が77歳にて逝去しました。

   令和2年(2020)2月5日

ブラジルサンパウロにて


 

弔慰文

 岩崎正三先輩は昨年11月に消化器系疾患の為、92歳の天寿を全うされました。
 此処に生前ご親交を頂きました知友の皆々様に厚く御礼申し上げます。
 故人は往時の大洋漁業(株)を始め日系水産会社数社のサントス港やリオグランデ港所属のマグロ延縄漁船や、底引き漁船の船頭及び船長として、ブラジル領海の大西洋排他的経済水域(EEZ)の延べ6500kmに於ける漁況及び海況を熟知して居られてました。
 その為折しもブラジル船籍の漁船の乗組員の2/3はブラジル国籍を必要とする法案の施行に対応すべく、乗組員の漁撈技術向上の特訓と並行して、日本から操船、漁具、漁法、等の技術導入に尽力されました。
 その非凡な功績は末長くブラジルの漁業史の一端を飾るに相応しく、西支那海、南太平洋、そして大西洋の荒浪を枕に生きた生粋の海の男としてここに故人が異国の地で安らかに眠られ、時には大西洋水域でのブラジル漁民の安全と大漁を祈願頂ける事を念じます。
 この度は先輩の「夢を叶えて生きるーブラジルにて40年」なる寄稿文が水産学部の魚水会(会長岩元善巳)の季刊誌「魚水」に掲載されました。しかしコロナ禍により未だ故人には郵送されて居りませんので、故人の遺稿としてブラジル日報社のご厚意により、一人の日本人が世界の魚を追いかけ夢が叶い生きた生涯の一端を掲載頂く事が出来御礼申し上げる次第であります。 合掌

   2023年2月

鹿児島大学水産学部
同窓会「魚水会」 野澤弘司

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