《記者コラム》ブラジルに残る大正デモクラシーの余韻=日系女性アーティスト3人の物語

来場者と談笑しながらサインをする弓場勝重さん

大正デモクラシー期に日本人1千家族が押し寄せたアリアンサ

 「お父さんは原始林を見たとき、ここに今から文化を創造するんだと感激して大地にひれ伏したと言っていた。鈴木章子さん(しょうこ)の話から、それに通じるものを感じたの」。アリアンサにあるユバ農場の創立者、弓場勇の末娘の勝江さん(かつえ、75歳、2世)が5日、サンパウロ市ビラ・マダレーナ区の有名デザイナー、フェルナンダ・ヤマモトさんの店で出版記念イベント「弓場勝重50年の追憶」を行った際、歴史を感じさせるそんなコメントを述べた。
 ユバ農場(https://www.youtube.com/c/ComunidadeYuba)は、1935年にサンパウロ市から北西に約600キロ離れた第1アリアンサに、仲間達と共に弓場勇が作った農業コミュニティだ。「祈ること、耕すこと、芸術すること」を実践し続け、創立88年を迎えた現在も、1世から5世までの約60人が生活を営んでいる。
 勝重さんは1947年10月に勇の末娘として生まれた。同農場はさまざまな困難にぶつかって一度は破産した。それでも仲間たちは互いに助け合い、「新たなる文化創造の実現」という夢を持って昼間は農業、夜や休日は芸術活動を続ける。農場内にあるユバ劇場で毎年行われるクリスマス公演には、サンパウロ市のファンや近隣から観客がたくさん集まる。
 勝重さんは「来年第1アリアンサは創立100周年を迎える。アリアンサでは6世まで誕生し、日本人移民の子孫としての誇りを持って生活している。私はその前祝いのような意味で、小さいことだけどこの本を出そうと思った。父たちはアリアンサを建設し、ユバ農場を作り、私たちを育ててくれた。一世紀前の最初の開拓者は、何もないところから始めた。そんなパイオニアに『ありがとう』という感謝を伝えたい。これは私にはとても大きなこと。私たちを育ててくれた1世の大きな愛が、100年経っても続いていることを、この本を読んで分かってもらえればと思うわ」
 第1アリアンサに先発隊が入植した1924年11月、日本では大正デモクラシーのまっただ中だった。その時代の感化を受けたインテリがまったく新天地での文化創造を求めて、南米に大挙してやってきた。翌25年に日本からやってきた本隊の中に弓場一家もいた。26年に第2アリアンサ、27年には第3が建設され、実質わずか3年間でなんと1千家族もの日本人が南米の原始林にやってきた。

「神の計画」として生まれたユバ農場

 入植者は日本で配耕地の土地を買う資産を持っていた人々だ。だから百科事典や世界文学全集、ピアノや天体望遠鏡を持参して文化生活を送るつもりで原始林にやってきた。食うや食わずで向かった先輩移民の多くからすれば、まるで銀座をブラブラしているそのままの雰囲気で開拓地にやってきたように見えたため「銀ブラ移民」と揶揄された。
 ブラジルへ渡った当時19歳だった弓場勇は、熱心なキリスト教信者であると同時に文学少年でもあった。武者小路実篤の作品と思想に触れて人生観を形成。特に武者小路のトルストイ論を読んで魅了され、トルストイ全作品を読み漁ったという。武者小路はトルストイのウマニズム(人道主義)からヒントを得て、白樺派文人を集合して1918(大正7)年に〃新しき村〃を創設したが成功しなかった。弓場は、アリアンサの近く所在した北欧の小国ラトビア移民の協同農場を参考にしながら、そのブラジル版を目指したとも言われている。
 イベント当日、店の入口に特設された会場には引きも切らずサインを求める人の列ができ、勝江さんは一人一人と話をしながらゆっくりとペンを走らせた。「お父さんはいつも言っていた。ユバ農場はオレが作ったんじゃない。神の計画だ。だからおまえ達は神様と話せる人になれ。生まれることも死ぬことも神の計画の一部だ。だからこの本も、私が書こうと思って書いた訳じゃないの。私は神様と話はできないけど、頭の中に浮かんだことを書き留めただけ」とまるで自動筆記者のようなことを言う。
 勝重さんは、農場の歴史を作り上げてきた人々の思い出や、生活の中で触発された事柄を文章や本にして出版してきた。今回は最近出版した4冊、『やまのおはなし』(2021年、初版1993年)、『輝かしき開拓者』(2020年)、『赤いリンゴのある庭』(2023年)、『くつしたを履いたピアノ』(2023年)の出版記念となる。
 本に興味がある人はユバ農場(電話18・3708・1247/1290、A/C Associacao Comunidade Yuba, C.P. 531, 1ª Alianca, CEP 16800-000 – Mirandopolis – Sao Paulo – BRASIL)まで。

鈴木章子さんと弓場勝重さん

「アベ・マリア」に手を合わせる章子さん

 中でも『赤いリンゴのある庭』は陶芸家の鈴木章子さんからインスピレーションを得て著された新作だ。勝重さんが2週間ほど章子さんの家に泊めてもらった際、興味深い体験談を毎晩聞いた。それが強く印象に残り、この本に結実した。
 章子さん(94歳、東京都出身)は脳溢血を煩ってから車いす生活となり、創作活動を辞め、自宅も処分して高齢者施設で生活しているが、当日娘に連れられて会場に姿を現した。
 章子さんが車椅子で現れるのを見た勝重さんはすぐに駆け寄った。章子さんの手をしっかり握りしめたまま、勝重さんは「私は歌うわ!」と宣言してシューベルトのオペラ曲「アベ・マリア」を滔々と歌い始めた。歌の高まりに答えるかのように、章子さんは手を握り返し、ときどき拝むように手を合わせた。とても敬虔さを感じさせる光景であり、周りにいるブラジル人らもしんみりとした表情を浮かべた。
 章子さんは自分をテーマにした本が出版された事に関し「こんなに嬉しいことは無い。世界の愛を感じてとても嬉しい。勝重の精神性には、私と通じるものを感じる。勝重は夢を持った人、ロマンチストなの。だから彼女が歌ってくれるアベ・マリアが好きなの」としみじみ語った。
 章子さんは、日本近代陶芸の先覚者板谷波山(いたや はざん、1872―1963年)の弟子から陶芸を学んでいた1961年、ブラジリア首都移転計画を特集したNHK番組でオスカー・ニーマイヤーのデザイン画を見て「衝撃だった。とにかく凄かった。私はブラジルに行くべきだ」と直感し、翌日から自宅を売りに出し、1963年にブラジルへ渡ったという。
 「小さいときから『広いところに行きたい』と漠然と思っていた。『地平線が見えるところ』がいいなと。だからあの番組を見てこれだと思った。日本移民のことも紹介されていた。『行きたい』とかではなく『行かないといけない』と強く感じた。絵描きだった主人と相談して、直ぐに決めたわ」と振り返る。

ブラジルの大地を感じて作品を作る

 章子さんはサントス港に降り立ったとき、「母親に抱え上げられたように感じた。大地の尊さと言うのかしら、大きなものに抱かれるような感覚が嬉しくて、嬉しくて」とつい最近のことであるかのように思い出す。その〝大地〟の欠片を使って陶芸作品を作ることは、その感覚を形にすることでもあった。
 「作品を作るときは、いつも大地の力を感じていた。ブラジルにはそれがある。それを感じて、作品に込めていたの」
 コチアに登り窯を建設し、手動旋盤、大地の一部である粘土、木の葉から作った釉薬を武器にして当地の芸術界に影響を与える作品群を発表した。実用とはかけ離れた球形、円筒形、卵形などの形状をしており、ブラジルの大地という母の胎内に宿る感覚を表現したかのような現代美術作品だと当地では見なされている。
 「私はキレイな焼き物は作りたくなかった。外見の美しさではなく深いものを内包している作品を作りたかった。ずっと作り続けて90歳になったころ、やっとそれが見つかったと確信した。だから、もう辞めなくてはと思った。これから先は空に向かって行かなくては、つまり神様の元に向かっていく。神様に呼ばれてもいいと思った。私は仏教でもキリスト教でもない。心の中で独自の神様との関係を作った。これは宗教ではないの」。そんな心境に至った後、脳卒中に襲われた。
 弓場勇は「原始林」を見て、そこに移民文化を創造するという興奮に包まれ、新しい農業コミュニティを作った。章子さんは「ブラジルの大地に特別な力を感じ、それを陶芸作品に込めた」。たしかにこの場所、この土地から強烈なインスピレーションを受け、方や共同農場という形にし、もう一人は陶芸という作品に昇華させた。勝重さんが言うとおり、似た部分があるかもしれない。

ユバに魅了されたSPFWデザイナー

フェルナンダ・ヤマモトさん(提供写真)

 今イベントに会場を提供したデザイナー、フェルナンダ・ヤマモトさん(44、4世、サンパウロ市出身)にユバ農場との縁を尋ねると、農場に20年ほど住んでいたシルビア・オオサカさんと知り合いになり、15年ほど前に誘われて農場で数日過ごしたことだという。
 「とても興味深い空間。もともと日本の着物や絞り染めの技法などに興味を持ち、自分のファションに応用する研究をしていたから、何か生きたサンプルを見るようで面白かった」と振り返る。
 フェルナンダさんの曾祖父母は広島県出身で、1920年頃に移住したと言う。マリリアやバストスなどパウリスタ線沿いに入植して農業に従事し、親は戦後にサンパウロへ行きフェイランテを生業にしていた。そこからサンパウロ・ファッション・ウイークで活躍する有名デザイナーが生まれた。
 大学では経営学を専攻したが、縫製工場で働いているうちにファッションに興味が湧き、NYパーソンズ美術大学で学び直した。「山本耀司、川久保玲、三宅一生とかに憧れて影響を受けた」ことからデザイナーの道に入り、現在の店(Rua Aspicuelta, 441)を15年前に設立した。
 日本には5回行った。うち2回はジャパン・ファッション・ウィーク(JFW)関係で、最後の2010年10年にはJFW新人発掘プロジェクト〝シンマイ〟デザイナー3人の一人に選ばれた。それで2011年3月に新進デザイナーとして第12回JFWでショーを披露するはずだった。「でも東日本大震災が起きてショーが中止になってしまったの。本当に残念。今でも日本でショーをするのが夢なのよ」と残念がる。
 フェルナンダさんはサンパウロ・ファッション・ウィーク(SPFW)で2回もユバ農場をテーマにコレクションを行うなど、同農場と親しい関係にある。「日本食は大好きだし、日本文化は私のデザインのインスピレーションの源泉ね」と力説した。

ジュリア・パスカリさん(左)

芸術にまつわる3人の女性の物語

 当日、40年来の勝重さんの友人、著述家・研究者のジュリア・パスカリさんも会場を訪れ、「勝重は大学など出ていないが、本物の人生の哲学者だ。農業と芸術を共存させるという生活実験を重ね、その成果を本として著わしている」と挨拶して賞賛した。
 パスカリさんは『輝かしき開拓者』の前書きも寄せており、そこには勝重さんのことをこう記す。「全てが使い捨て、スピード至上主義的な現代では、伝統的な知識や生き方は息をひそめるようになってしまった。そんなはかない時代において、この本からは伝統の賢明で力強い声がよく聞こえる。カツエ・ユバは歌うこと、料理すること、絵を描いたり、洋服を作ったりする芸術家である。彼女はその多彩な表現力を使って、夢と希望と光をもってブラジルにやってきた日本人移民たちの知識や生活のさまを、絵画や文章にしてきた」とブラジル人の目から分析した。
 勝重さんは「父の言うことと章子さんには共通点がある。フェルナンダさんとも通じるものがある。だから、私が書いた章子さんの本の刊行イベントを、この店でやることは意味があるの。私たちがこうやって活躍できるのは、日本移民という土台があってこそ。そこには日系人が愛をもって生きてきた事実がある。それを世界の人に知って欲しい。それが神の計画なの」と強調した。
 共同農場という独特の取り組みの中で生まれ育った弓場勝重、日本を飛び出して自分の陶芸を南米で作り上げた鈴木章子、SPFWで活躍する新進気鋭のフェルナンダ・ヤマモト、3人の強烈な女性が揃ったから、このような不思議な場が生まれた。これは古くて新しい、伝統的だが前衛的でもある日系女性のブラジル社会貢献を象徴するようなイベントだと感じた。(深)

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