《特別寄稿》ハイパーインフレの思い出《3》まさかのドル暴落で大混乱=サンパウロ市 水澤正年

1990年にドルが暴落した様子

 旅行社の支払い先は、航空会社やホテルや、バスやセダンなどの配車サービス会社などがあり。リオ、イグアスー、マナウスなどブラジル各地で地上手配を依頼している提携会社があり、それらすべての関係先に支払いが発生してくる。
 だが、二割しか残っていない手持ちのクルゼイロの資金では、すべては払いきれない。なら手持ちのドル資金をクルゼイロに両替して払うか、といってもドルは暴落していて、いまドルをクルゼイロに両替したところで、それはドルを入手したときの三分の一の価値になっているのだから、そんなことをしたら、大いに損だ。
 それに、いま、ドルをクルゼイロに替えてくれるところなどないだろう。いまは、どこだって、クルゼイロ不足で困っているのだから。どこの両替商も会社も個人も、いま、この時点で、ドルなどには何の興味はないだろうし、見向きもしないだろう。
 と、どうしようかと頭を悩ませていると、どこからか、天の声のように、後付小切手というやり方があるという声が聞こえて来た。誰が考え出した手なのか、私はそれを聞いて素直に感動してしまった。いまは、誰もが支払はなければならないものを支払おうとしていた。先付けでも、当日付けでも、後付けでも、請求書の処理が出来ればいいのだ。この、私の思考や発想からあまりにもかけ離れた、私には異次元的な発想に感心してしまった。
 小切手は普通、小切手を振り出した日の日付を明記して振り出される。が、たまに、何かの支払いの都合などで、振り出した日から何日か、もしくは何週間か何か月か先の日付を明記して振り出すことがある。それが先付小切手だ。それを後付けにするというのだ。言い換えると、請求書の期限よりも前に小切手を切っていたということにするというのだ。
 後付け小切手が有効であるとする考え方は、三月十五日以降に封鎖された預金も小切手も、三月十四日以前なら封鎖されていない、有効であるという考えの上に成り立っているのだろう。だから、現実には請求日の期日のあとに発行されている小切手なのだが、その、これから振り出す小切手を三月十四日以前の日付で振り出せば、その小切手はそれで有効になり、銀行口座の「金」は、問題なく使える、という考えなのだ。銀行がそれで決済をしてくれるというのなら、それで結構だ。入金もおなじ条件になる。これで「金」は動きはじめた。
 ドルも動きはじめた。ドルのレートは、二重に建てられるようになった。一つは後付け小切手用のレートで、ドルで資金を持っている人が支払いにクルゼイロが必要になったとき、ドルでクルゼイロの後付け小切手を買うレートで、もう一つは、通常のドルとクルゼイロのレートだ。
 これで、このとき、私も会社も、とにかく仕事はつづけれそうだ、と何となくほっとし、ひと安心をしたという記憶がある。がもちろん、それはこれから発生する色々な問題の、ほんの先駆け的変化であっただけだった。
 その後、この預金封鎖では各地で悲喜こもごもの出来事があった。
 それは、ちょうどそのころ出張でブラジルにきていた、ある日本の企業の社員のことだった。彼は、預金封鎖の数日前から、私の会社を通して予約したサンパウロ市内の五つ星のホテルに泊まっていた。そのホテルは、預金封鎖前の宿泊費は一泊百ドルだったのに、預金封鎖後は一泊三百ドルになってしまった。
 彼は、おなじホテルのおなじ部屋に泊って、どうして三月十五日をさかいに料金がこんなに違うのか、とそれが納得できないと文句を言った。彼は、急に経済政策が変わって、ドルが値下がりし、クルゼイロが値上がりしたからだ、といくら説明しても納得せず、これでは日本に帰って会社に説明がつかない、と嘆き、最初の約束どおり一泊百ドルでしか払わないと、ずいぶん頑張ったが、結局、泣く泣く新料金で払って行った。
 そのころサンパウロで開催された、フォーミュラーワン・ブラジル・グランプリのためにこの地にきていたパイロットやメカニックは、持って来たドルが両替できず、出来たとしてもレートが極端に悪くなっていて、クルゼイロ不足で、その日その日の食事代にも事を欠いた、という話を聞いた。
 タクシーの運転手は、以前はドルで料金を貰うと喜んでいたのだが、預金封鎖後は一変してドルの支払いを拒否し、ホテルやショッピングなどもドルや小切手での支払いを拒否し、クルゼイロの現金での支払を要求してきた。彼らだって、生き延びるためにそうせざるを得なかったのだが、そのために各処でトラブルが生じ、言い合いがあり、怒鳴り合いが発生した。
 私のある友人は、新しく事業をはじめようと思い、事業資金にしようと二つ持っていたアパートの一つを売った。アパートの売買が成立したのが預金封鎖の前日で、彼は受け取った金の全額を銀行に預けた。その翌日、預金封鎖にあった。彼は、預けた金が引き出せなくなり、計画していた事業ができなくなり、怒り心頭に発した彼は事業を諦め日本に出稼ぎに行った。
 あるブラジル人の男は、預金封鎖で資金繰りがつかなくなり、商売がだめになり、夫婦関係が悪化して、その後、離婚してしまったという。
 その他諸々の問題が生じ、その問題の影響はその後も尾を引き、それから長く預金封鎖で損害を被った人々が政府を相手に損害賠償を訴えている。

1990年から93年まで使われていたクルゼイロ紙幣(Casa da Moeda do Brasil, CC0, via Wikimedia Commons)

〈3〉そして、再びインフレ

 ブラジル人は楽観的で明るい。というよりは暗くなれない国民性なのかもしれない。ブラジル人は根っからの陽気さで、社会の変化に巧みに順応し、ハイパーインフレの真っただなかでも悲惨にならず、狂気に走らず、頼りにならない政府が何かをしてくれるのを待っている暇があれば、我が身の明日は我が身で考える方が得策だと思っている。
 それになによりブラジル人はしたたかだ。ハイパーインフレにも、様々な新経済プランにも負けずに生き抜くすべを知っている。そのとき、誰もパニックにはならず。庶民は、日々インフレと闘い、日々より良い生活を求めて営みをつづけてゆく。
 これが、このころ何年ものインフレとブラジル人との戦いの姿なのだ。
 そして預金封鎖直後のごたごたした日々のあと、誰もが生活に追われ、日々の対処をしているうちに、いつしか新経済プランについて話題にするものもなくなり、それからどれくらい経ったぐらいか、インフレはその動きを弱め、ときには一瞬インフレが止まったかのように見えたりもする。
 がその刹那、政府を信用しない国民と結託したインフレは、またぞろ上がりはじめ、上がりはじめると、買占めがあり、売り惜しみがあり、物不足になり、いつの間にかインフレは進みだし、そのうちまたいつものハイパーインフレに戻り、以前と変わらぬインフレ生活になり、人々は以前のように、給料をもらった最初の週末に、妻と子供と連れ立ってスーパーマーケットに行き、大きなカートにその月の買い物を詰めるだけ詰め込んで買うようになった。

辛い出来事を忘れさせる俊逸なピアーダ

 そしてあれから何十年も経ちました。もう二十一世紀にもなりました。
 その後、預金封鎖の責任者だったゼーリア・カルドーゾは、新経済プラン発表から十四か月後の一九九一年五月十日、新経済プランの失敗の責任を取らされたのか経済大臣を解任された。解任後、彼女は高名なコメディアンと浮名を流し、それが世間の話題となり、人々を楽しませたあと、その彼と結婚し、仕事の中心も住まいもニューヨークに移し、彼の地で経済アナリストとして、彼とのあいだに得た子供と共に優雅に暮らしているという。
 私は、あれから何年経っても、ブラジリアからサンパウロに帰って来た三月十六日から数日して、どこからともなく聞こえて来た、ピアーダ(小話)のことを思い出す。ブラジルのピアーダは、政治や経済に絡んだものが多く、大きな声でものが言えなかった軍事独裁政権時代には、庶民のうっぷんの晴らしどころとして、とても素敵で機知に富んだ楽しいピアーダが、数多く語られ、広まったものだ。そしてこれもその一つ。軍政後に、久々にヒットしたピアーダで、当時、口から口へ瞬く間に国中に広まった。
 ピアーダを説明するなど野暮なことだが。私には、このピアーダを説明抜きで日本語で伝えるのはむずかしく、野暮を承知で説明してみます。
 この、ゼーリア・カルドーゾと預金封鎖を揶揄したピアーダのポイントは、このピアーダの最後からひとつ前の「オーメン」という言葉が「人、又は、男」という意味に、最後の「ドゥーロ」という言葉が「貧乏、又は、硬い」という意味に二重になっているところで、この二つの言葉がたがいに作用し合って落ちになっています。誰がつくったのか、真偽のほどは不明ですが。一説によると、新政権に不満を持っていた、首都ブラジリアの野党系政治家の誰かだとのことですが、どうでしょうか。
 さて、当時流行ったピアーダを、当時のことを知っている方は当時を思い出しながら、当時を知らない方は空想と想像力を駆り立てながら、ポルトガル語バージョンと一緒に、楽しんでみてください。(終わり)

ゼーリア・カルドーゾ・エ
ゼーリア・カルドーゾは、
ムリェル・マイス・ボニタ・ド・ブラジル
ブラジルで一番魅力的な女だ。
ポルケ
どうしてかと言うと、
ソ・ウマ・ノイテ
たった一晩で、
デッショウ・トド・オーメン・ドゥ―ロ
全ての人を、又は、全ての男を、貧乏にした、又は、硬くした。

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