《記者コラム》健康に100歳迎える秘訣とは=移民史の生き字引、梅崎さん

家族に囲まれ、100の字が入ったケーキにナイフを入れる梅崎さん

健康に100歳を迎えるために

 3月21日に100歳を迎えたサンパウロ市南部在住の梅崎嘉明さん(奈良県出身)が先ごろ4冊目の歌集を出版した。さらに家族が主催して120人もの親族友人が集まった盛大な100歳祝賀パーティーが25日に静岡県人会館で開催された。
 補聴器も使わずに会話ができ、短歌や文章を毎日ひねり、挨拶のために舞台への階段も一人で上り、当協会にも普通に来社する。100歳まで生きる人はコロニアにも何十人かいるが、梅崎さんほど健康に紀寿を迎える人は少ない。健康の秘訣を本人から聞き出そうとしても「大したことは何もしてません」と謙遜するのみ。だが、祝賀パーティーの折に長女レジナさんがこっそり明かしてくれた。
 Nippon.comサイト(3)によれば、22年9月1日時点で日本には100歳以上がなんと9万526人もいる。対するブラジルではArte e Cuidarサイト(4)によれば3万人以上だ。日本の約2倍も人口がいるブラジルで、100歳以上は3分の1。それだけ当地では希だ。しかも健康な100歳は貴重な存在だ。
 国家地理統計院(IBGE)によれば、ブラジル人の平均余命は76歳。この10年で平均余命は2年延びたが、健康寿命は3年失われたとの研究もある。かくも「健康に歳を取る」ことは難しい。梅崎さんの生き方を参考にしてみたい。

「移民史の生き字引」的存在

 梅崎さんは1923年3月21日に奈良県に生まれ、1932年、護憲革命の真っ最中のブラジルに9歳の時に家族に連れられて移住し、以来91年を過ごした準二世、子供移民だ。梅崎さんはニッケイ新聞2015年7月29日付に「護憲革命の思い出=サンパウロ」(1)という以下の文章を寄稿した。
    ☆
 7月9日はブラジル護憲革命記念日である。その革命最中の(1932年)7月26日に私たち800余名の移民が、大阪商船ラプラタ丸でリオ港に到着した。
 リオは世界第3美港の一つとしてその頃から知られていて、移民たちはその都市に上陸して景観を満喫するつもりでいた。船から移住局へ上陸申請の無電を打ったが、先方からOKの返事が来ない。革命で何もかも麻痺しているらしい。
 一夜が明けて立ちこめていた濃霧が去ると、写真で知られているポン・デ・アスーカルの岩石がぬっと目の前に伸び上がっていて、船の近くには2~3の飛行艇が浮いており、しばらくするとその一機が水飛沫を散らして舞いたち、都市の上空を何十分も旋回している。その機が戻ると、また別の機が飛び立つ。革命軍の都市潜入を警戒しているらしいとのことだ。
 船からはその日一日中、上陸申請をくり返したがラチがあかず、夜になってサントスに向って南下した。
 幸いにサントス港では上陸を許された。平時はそこから列車でサンパウロ市の移民収容所に送られるのだが、収容所は革命軍の宿舎に利用されていた。出迎えに来られた秋穂梅吉氏は、「まことに申しわけありませんが、今夜はこの町(サントス)で宿をとり、明日早く列車で奥地に出発していただきます」と、一同に低頭されている。
 何しろ800名近い人数である。それぞれホテルや宿に割り当てられたが、どのホテルも寝台が足りず廊下にザコ寝といった有様だ。我々はどこまで落ちるのだろう、と移民たちは不満たらたらである。
 私は10歳の少年だったから、そうした大人たちの愚痴とはよそに、ホテルの窓から野外に目をやると、土嚢を積んだ塹壕が左右に伸びていて、何十名かの兵士が銃を構えて前方をにらんでいた。
 上官らしい男が何か叫び、兵士は一斉に土嚢を越えて前方へ走り去った。革命軍の集団訓練らしい。「勇ましいな」と私が感嘆していたら、髭面のホテルの主人から中に引っ張り込まれた。革命をすごく警戒しているらしい様子だった。
 この騒動は一緒に移住した800名の人々の体験でもある筈だが、そのことを書いた物はあまり見かけない。私は私の書く小説にこの革命を時々はさんでいるので、読んで下さった方もいるかも知れないが…。
    ☆
 実に生々しい証言だ。「護憲革命」とは、サンパウロ州勢がリオの連邦政府に対して反旗を翻した革命のこと。1930年の大統領選挙で敗れたジェトゥリオ・ヴァルガスが、当時の政治腐敗などの不満を背景に軍事クーデターを成功させて政権を掌握し、憲法を停止させた。それに不満をもったサンパウロ州民が1932年に「憲法を護れ」と革命を起こしたのが護憲革命だ。
 ブラジル史上最大の内乱を、身をもって知る一世は実に少ない。〝移民史の生き証人〟として貴重だ。

「フジヤマの飛魚」見た後に飛魚歌会

 梅崎さんはカフェランジアのブラジル人コーヒー耕地に入植し、植民地で畑仕事に従事した。戦争中、日本移民は敵性国民として移動がが禁じられ、ひたすら仕事に打ち込むしかなかった。その中で梅崎さんは写真と文学を学び、1949年に出聖してサンジョアン街で最初の写真館を開業し、子どもを育てつつ文学への情熱を燃やした。
 同じ1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められるやいなや、古橋や橋爪ら6選手は、米国ロサンゼルスで8月にあった全米選手権に招待参加し、次々と「世界新記録」を樹立し「フジヤマの飛魚」と呼び讃えられた。その翌年1950年にブラジルのスポーツ省の招待で、彼らは南米遠征した。
 全ブラジル水泳選手権大会がサンパウロ市パカエンブー・プールで3月22日から4日間開催され、古橋選手は400メートル自由形で南米新記録を樹立するなど偉業を残した。特別な計らいで国交断絶以来8年ぶりに、日の丸が公の場所にはためき、辛い戦中を送った日本移民の心を大いに慰め力づけた。
 ニッケイ新聞2016年8月12日付《ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡(4)》(2)で、梅崎さんはその時に実際にパカエンブーのプールに大会を見に行った時の感想を、「大会の前には、何を大騒ぎしているんだとけっこう冷めた感じの人もいたし、私もそうだった。でも実際に日本人選手が活躍するのを見ているうちに、いつの間にか一緒に大騒ぎして、結局はすごく感激した」と語った。
 さらに《感慨深そうに「日章旗が掲揚されたとき、すぐ隣に並んでいた岩波菊治さんが涙を流していた」と付け加えた。落ち着いたインテリの印象が強い岩波だが、さすがにこの時ばかりは、感情の高ぶりをこらえ切れなかったようだ。
 「あのときは勝ち組も負け組もなく、皆がプールに集まった。ブラジルの水泳大会だから普通なら大半はブラジル人の観客。ところが、その大会だけは日本人が半分を占めた。そんな場で、古橋らはブラジル人選手に十何メートルもの差をつけて勝利を飾った。その姿をみて一緒に溜飲を下げ、日の丸掲揚を見て、みんなで涙を流した。今思えば本当に特別な日でした」としみじみ振り返った。
 梅崎さんは当時27歳で短歌結社・椰子樹の一番の若手だった。先輩諸氏と一緒に見に行き、興奮冷めやらぬ前に同人の家に寄り「飛魚歌会」を開いた。その作品がパウリスタ新聞1950年4月1日付に掲載されている》と梅崎さん取材に応えた。

歌集や小説選集など計14冊を出版

 梅崎さんは短歌を続けて『四〇の生』『軌跡』『草穂』などの歌集を出し、この度、99歳(白寿)を記念した歌集『草に置く露』を100歳の年に刊行した。自作の短歌と小説を掲載した『奴隷と移民』、小説家としてのペンネーム矢嶋健介名で刊行した選集『流氓』、歌友3人で編んだ『かなえ合同歌集』、エッセイ集など計14冊にもなる。
 受賞歴としては1964年には小説「佐代の周辺」で第8回パウリスタ文学賞受賞、2004年に小説集『流氓』がコロニア文芸賞受賞、2020年にもエッセイ『忘れがたみの記』でコロニア文芸賞を受賞した。まさにコロニア文芸を代表する一人といえる。
 その間、1984年から在ブラジル奈良県人会長を2000年まで務めた。2002年には母県のいかるが町「ふれあい広場」には梅崎さんの歌碑が建立され、家族も招聘され盛大に祝った。
 中でも小説『流氓(薄倖移民の痛恨歌)』では、終戦直後に勝ち組の強硬派として島流しにされた青年と、家のために人生を捧げるのかと悩む娘との淡い恋心を描いた。自らの移民体験を小説に昇華させた渾身の一作といえる。
 その序文の中で松井太郎は《世界史の中でも、かつてない規模の動乱の世代に、海を渡って往った若者たちの倖せ薄い出会いを、矢嶋氏は長恨歌として詠っている。私は、秋の夜長に刻を忘れて通読した。哀れとも、痛ましいとも言える沈痛な印象が永く残った。近来の日系文学界に傑出する労作である》と論評した。
 松井太郎はブラジル日系社会の小説家としては唯一日本で評価され『うつろ舟』(編集者・西成彦、細川周平、松籟社、2010年)、『遠い声』(同、2012年)など2冊も小説集が出版された人物だ。

長女が明かす長寿の秘訣とは

梅崎さんと長女レジナさん

 梅崎さんの100歳記念祝賀パーティーが3月25日昼からサンパウロ市の静岡県人会館で開催され、親族や俳句や短歌、文章会の仲間ら約120人が集まり、ご馳走を食べながら旧交を温めた。
 まず長女レジナさんは家族を代表して挨拶し、「皆さん、一緒に健康な100歳を目指しましょう。私が思う父の長生きの秘訣は、したいことをする、友人を持つ、自分のことは自分ですること。起床、就寝、身体を動かすなど規則正しい生活をする。朝ごはんはリニャッサ(アマ=亜麻)と蜂蜜をかけたフルーツサラダ、リンゴ半分、ジャムをぬったトースト、コーヒーを入れた牛乳。夕食は最初に葉野菜のサラダ。サツマイモ、サトイモ、カボチャ、キノコ、海藻、豆腐が入った煮物。デザートはフルーツだけ」と明かす。
 次に本人がスタスタと階段を上って舞台に立ち、「大正12年生まれだが気持ちは70歳くらいだと思っている。出聖して文学仲間先輩にしごかれた。あれこれ頭を捻る習慣がついたおかげでボケずにすんだ。娘夫婦の尽力でこんな会を開いてもらってうれしい」と感謝した。
 梅崎さんが創立者の一人の文芸サークル「橘の会」の会員を代表して垣花八洋夫さんがマイクを握り、「文章会の度に必ず新しい作品を自ら披露する。実に若々しい作風で、エッセイだけでなく短歌や小説も書き、我々を魅了してやまない」と祝辞を贈った。同会の村上ことじさんもお祝いの言葉を述べて万歳三唱をした。
 パラナ州マリアウバ市からいとこの井丸昭男さんが駆け付け、「おじさんを先頭に、我々家族にも次々に100歳が生まれるかもしれない。ぜひ嘉明おじさんの生活態度を見習って」と語った。
 本紙俳壇選者の小斎棹子さん(86歳)は、「梅崎さんを見ていると、文章を書くなど頭を使う習慣があるとボケないと感じる。心からお祝いを申し上げたい」と抱き合って喜んだ。短歌仲間の小池みさ子さんは「選者を何十年も続けられ、頭も体も衰えていないのはすごい」と感心した様子でうなずいた。
 梅崎さんのように、言いたいことを言って『したいことをする』から気持ちが常に若く、『友人を持つ』から社交的で活き活きとし、『自分のことは自分でする』から自活した生活が続けられるのかも。(深)

(1)https://www.nikkeyshimbun.jp/2015/150729-praca.html

(2)https://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160812-62colonia.html

(3)https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01443/

(4)https://arteecuidar.com.br/idosos-com-100-anos-brasil-tem-mais-de-30-mil-centenarios/

(5)https://www.bbc.com/portuguese/geral-62120822

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