連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第97話

 絵理子の家族に松本さん親子で雑煮と年越しそばでNHKの紅白歌合戦をみて、夜は真夜中、年の変り目、世紀の変り目をしっかり確かめて、リオの打ち上げ花火をテレビで見ながら、二十世紀に別れを惜しんだ。今年の七月十四日に生まれたケヴィン翔は百一才まで長生きすれば三世紀を体験することになる、と皆で話しながら祝福した。
 二〇〇一年(平成十三年) 二十一世紀の始まり 慧六十六才、美佐子六十二才
・ 一月一日 二十一世紀最初の正月。子供達、孫達皆集まって年越し、その後イビウーナの前田ペスケイロ(釣堀)に移動して、清水のマスを釣って楽しんだ。
 さて、世紀の変りを何も考えずに素通りするのは何かもったいない様な気がしていたら、そんな私達に思わぬ思い出の出来事が現れた。私が六十六才、美佐子が六十二才で結婚四十二年目である。
 ポルトガル語による日系二~三世、または日本への出稼ぎ日系人を対象にサンパウロで発刊されている雑誌“Made in Japan”誌の表紙を私と美佐子の大きな顔が飾ったのである。それも二人とも日本着の正装である。その横に若い二世の夫婦の写真が小さく出ている。これのテーマはお見合い結婚と恋愛結婚。日本の昔の結婚様式、それも写真見合い結婚を肯定的善意に説明している。つまり私達は見合い結婚の代表で、この横に写っている若い夫婦は恋愛結婚の代表である。こう言う事で私達は一躍有名になった次第である。割合良く撮れた写真なので安心した。初めての日本着姿の写真で私達もまんざらではないよねと顔を見合わせて笑ったことであった。
・一月二十一日 国士舘マレット・ゴルフ場の第二カンポ(コース)造成の芝植え。
・一月三十日 美佐子の心臓の検診の結果、軽い不整脈で毎日薬を飲むこと。
・二月四日 今里エジソンけい君四十一才のやく入り祝い。シチオに七十人位友人達を招いてにぎやかに一日を過ごした。
・二月五日 孫の茜がバルゼン・グランデ幼稚園に入学、これより美佐子は茜ちゃんが毎日サンロッケとバルゼン・グランデの間を送り迎えすることになる。
・二月十日 バルゼングランデ、カラオケ、ダンス夕食会(二〇〇人位参加)。
・二月二十三日 県派遣農業研修生小林君と福井君着伯、三月二十九日まで今年は特に遅れてついた。
・二月四日 県人会総会で吉加江ネルソン正健会長就任、私は副会長。
・水耕栽培一式をエーディネルに賃貸する。

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