連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第58話

 私達はその日から毎日二席を運び、三月二十五日におさづけを頂き、天理教に入信したのである。この事を誰よりも喜んだのは母ぬいであった。
 また、話を少し前に戻して、天理市滞在一週間の間にぬいの母さんが育てて来た三人の娘、智英(ともえ)、郁子(いくこ)、美津子(みつこ)に大変お世話になった。次女の郁子も藤岡良一君と結婚して、長男の一也が生まれていた。良一君は近くの電気製品の店で働いていた。三女の美津子はその母、いしのさんゆずりの美人、明朗で彼女のギターに合わせて皆で歌った。
 二〇日の日はその皆が天南荘に集まり、山岡宗喜若会長の司祭で祖先供養の月次祭(つきなみさい)を催した。天理のおじばに着いてすぐ風邪に取りつかれた。咳をこらえるのに苦労した。

    美佐子の母、政子の入信

 さて、もう一つ、ここで記さねばならないことがある。それは美佐子の母やきょうだい達と天理教のことである。美佐子がブラジルに旅立って間もなく、母、政子が意識に調和を欠く様になり、何事も手につかずボーとして、時を過ごす様になった。そこで私の母ぬいがしきりに天理教入信をすすめ、説得して天理のおじばで三ヶ月の修養科に入り、山岡さんの此花教会所属で入信した。そうしたら三ヶ月の修養科の終わる頃にはすっかり正常に戻り、それからの彼女は毎月熊本から天理に通って、おつとめをするほど熱心な信者になった。その上、熊本の自宅を布教所として布教につとめ、月に一度は日向から山岡先生を迎え、近所の人達に集まって頂いて、月次祭を行う様になった。
 もちろん政子の子供達も嫁達も皆、修養科に学ばせ入信させた。特に末っ子の松郎は天理高校に学ばせた。その子供達は男四人が大阪で仕事をしていたので、母の天理に奉仕する費用はすべて協力してくれた。それにもう一つ、多分一九六八年頃のことだろうか、政子の夫、伝松は熊本県の短歌界では有名な存在であったが、それが変にこうじて、被害妄想症状となり、それも精神異常となった。彼も政子に連れられて修養科に入り入信した。その後、一応精神的な安定は取り戻したのだが、昔の酒の呑み過ぎやその他の生活の乱れなどの影響で、一九七〇年十一月十八日、六十八才で亡くなった。

    奈良の天理から生まれ故郷、日向へ

 いよいよ天理を出て、私のふるさと宮崎県日向市に帰る日である。まず、天理で母ぬい宛に送金しておいた金六十七万円を引き出して、本殿に参拝後、山岡の若旦那に案内されて、大阪の此花大教会に。重い二個のトランクを引きづりながら、午後五時に着き、政子母さんと合流。田辺会長さんに挨拶、夕食をよばれる。

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