日本入国管理センターという闇=〝隠れ移民大国〟の鉄格子なき牢獄=《3》=ノンフィクション作家 高橋幸春

「トルコに戻りますか」という拷問のような質問

 デニスに対しては日常的に入管職員による挑発行為が行われていたようだ。
「面会が終わった後、身体検査が行われ、夏の時など半ズボン、半袖のシャツで、直接肌に触れて検査などする必要もないのに、触ってくるので、止めてくださいと手を払っただけで、笛を鳴らされ『はい、暴行』とスペシャルルームに連れていかれた」
 デニスを追い詰めたのは、それだけではない。「精神的な暴力」もある。それは難民申請にかかわる面接を受けた時だ。
 係官から執拗に聞かれた。
「トルコに戻りますか」
「その質問は止めてください」
「規則だから聞かないわけにはいきません」
「トルコに戻れば、私は殺されます」
 いくら訴えても、同じ質問が繰り返され、質問そのものが「精神的な暴力」だった。職員から「とっとと自分の国に帰れ」となじられたことも一度や二度ではない。
 19年8月2日に二週間、仮放免の処置が取られた。
 2週間の仮放免中にデニスを診察した四谷クリニックの医師は拘禁反応の疑いがあると診断している。しかし、十分な治療も受けられないまま「牛久」に再び収容された。それ以後、症状は悪化の一途を辿る。
 全国17施設でもデニスと同じような処遇を受けるケースが相次ぎ、ハンガーストライキで抗議する者が現れた。
 8月16日に再収容されたデニスもハンガーストライキで入管に抗議、仮放免が出た10月25日までの71日間に体重は10キロ以上落ちた。それだけではない。精神的に追い詰められて両手首を切って自殺を図ってもいる。
 使ったのはジュースの缶だ。
「いつもは飲み終わるまで職員が立ち会うけど、その日は、用事があったのか途中で離れて戻ってこなかった。その缶を隠しておいて、後でばらして手首を切った」
 仮放免で入管施設を出た直後、10月31日に港町診療所の医師が診察し、意見書を書いている。
 疾患は、「心因反応、抑うつ状態疑、PTSD疑、胃炎/十二指腸潰瘍疑、腰痛症・左足筋肉痛(制圧・暴行後遺症)」としている。
 PTSDについては「入管職員から暴行をうけた出来事がフラッシュバックとなり、頭からはなれません。PTSDの可能性がたかく、その場合の治療は、できるだけその出来事の場所から遠ざかることです」と記載し、「入管施設内では、適切な検査が実施されず、ときには見逃しや誤診がみうけられます。入管医療の限界なのでしょうが、医師としての診断能力にも、かなり疑問があります。医師であれば、患者の訴えに耳を傾けなければなりません。(略)デニスさんをこのまま入管収容施設に再収容することは、避けなければなりません」とも述べている。
 しかし、11月7日、再び収容された。

頻繁に自殺未遂するまでに精神疾患が悪化

 20年の年が明けると、デニスは自殺未遂を頻繁に繰り返すようになる。
 シーツを換気口に吊り下げ、ゴミ箱を踏み台にして首を吊ろうとした。毛布の縁をはぎ取って紐にして、首に巻き付けたり、Tシャツを破いて紐にして首を絞めたりして、自殺を試みた。ビニール袋を飲み、死のうとした時もある。
 度々自殺を試みているが、記憶がないケースがある。
 不眠、幻視、幻聴に苦しめられた。複数の向精神薬、睡眠薬が処方された。デニスにはトリアゾラム(ハルシオン)0・25mg錠が4錠出されていた。この薬は保険適用が1日2錠までで添付文書にも1日5mgと記載されている。
 デニスの度重なる自殺未遂、そして「過剰投与」について、20年3月5日の参議院予算委員会で石川大我議員が追及している。
 仮放免が認められ、東日本入国管理センターから出たのは、20年3月23日のことだった。
 この時期に多くの収容者が、仮放免が認められ施設から出ている。表向きの理由はコロナだが、実際には自殺者、病死が多発し、国会でも取り上げられ厳しい社会的批判にさらされたからだろう。
 デニスの来日から今日まで、収容された経緯を辿り、入管施設内部で行われていた処遇を見ると、精神的、肉体的に限界まで追いつめ、2週間だけ仮放免、体力を少し回復させてまた収容。それを繰り返して厭世観をあおり、難民申請者を「死の帰国」へ追いやるための入管が考え出した「効率的・効果的な排除」の手段のように思えてくる。
 19年10月、国連恣意的拘禁作業部会に対して、難民申請者に対して人権侵害が行われているとデニスともう一人サファリ(イラン人)は調査を求める要望を送った。これを受けて国連恣意的拘禁作業部会は、20年「日本の入管収容は自由権規約に違反している」と発表した。
 22年1月、デニスとサファリの2人は、日本の入管制度は国際人権規約に反するとして国を提訴した。デニスは入管の不法行為を問う裁判と二つの訴訟を争うことになった。

外国人労働者を排斥するビラの歴史も

トルコでの迫害から逃れてきたクルド人のアリ・アイユルディズ(47)

 クルド人がトルコでの迫害から逃れるために来日するのは90年代に入ってからだ。アリ・アイユルディズ(47)は日本に辿り着いた初期難民の一人だ。1993年4月19日、新東京国際空港に降り立った。トルコでは18歳になれば徴兵される。出国の動機は徴兵から逃れるためだ。
「徴兵されてしまえば、クルド人制圧の現場に派兵される。それだけは絶対にしたくなかった」
 兵役拒否は処罰の対象となる。日本に入国したのはデニスと同じで、査証なしで入国できるからだ。
「数カ月は所持金でなんとか生活した」
 当時の日本は90年に入管法が改正され、オーバーステイのまま日本で就労する外国人を帰国させ、その代替として南米の日系人に定住査証を与えて導入した。オーバーステイの外国人を雇用している会社経営者も処罰の対象となった。
 すでにバブル経済は崩壊していた。それまで就労していた外国人は帰国に追い込まれていったが、それでも日本に残り就労する者もいた。静岡県には今もデカセギ日系人が多く働いているが、バブル崩壊直後に外国人労働者を排斥するビラがまかれていた。
「あなたがたは日本政府の発行した労働許可査証を持っていますか? 又はそれを持っていても有効なものですか? 日本では労働許可査証がないと仕事が出来ません。仕事がなければ住まいや生活環境、特に毎日の食費なども困るようになり犯罪を犯すようになるのです。労働許可査証を持たず仕事をしていても日本は今不景気の最中でもあり今後ますます警察の摘発や政府機関の圧力が強くなって来ます。私たちもこれ以上日本固有の文化、歴史、生活習慣を脅かされてあなたがたのような理解のない人が増え続ければ、公共的なレベルだけではなく、民間レベル、各個人的にも攻撃的な手段を取るしかなくなる状態に追い込まれようとしています。以上のようなことを踏まえて速やかに自分の母国へ帰国することを警告致します。また労働許可査証を持って働いている外国人(日系ブラジル、ペルーその他)の方も日本にいるからには、ただ単に稼ぐのではなく、労働許可査証を持っていれば何でもよいわけではないのですから日本の法律はもちろん、地域に合った生活マナーを守って少しでも早く母国へ帰国できるよう一生懸命頑張ってください」
 こうした外国人を排斥する雰囲気は静岡県に限ったことではない。

日本は難民申請者にとって鉄格子のない牢獄

 アリが入管法違反で逮捕されるのは、98年3月だった。入国から5年の歳月が流れていた。
「解体の仕事を終えて帰る時だった。警察官に呼び止められた」
 外国人カードの提示を求められた。この当時は、地方自治体から「在留の資格なし」と記載された外国人登録カードが発行されていた。提示するとその場で逮捕された。そのまま東日本入国管理センターに収容され、身柄は01年6月まで3年3カ月にわたって拘束された。
「私が収容された直後から次々とオーバーステイの外国人が入ってきた。石原都知事が就任した後、その数が急激に増えた」
 石原慎太郎が都知事を務めたのは1999年4月から2012年10月までだ。いつまで収容されるのか、入管側からいっさい説明はなかった。74日間ハンガーストライキを続け抗議した。115キロあった体重は70キロにまで減っていた。
 仮放免の許可が出たが、04年に再び収監される。
「何故、収監されたのか、いまだに理由がわかりません」
 東日本入管センターに1年にわたって収容され、05年6月に仮放免の許可が出た。
 アリは赤坂で逮捕された年の6月に難民申請を行った。申請しては棄却され、再度申請するということの繰り返し。
 その一方で、難民認定をしない処分の取り消しを求める訴訟を01年に東京地裁に起こした。04年に取消請求を棄却する判決が降り、最高裁まで争ったが、06年に棄却されている。同様の裁判を09年にも起こしたが、結局、控訴審判決も棄却で、判決は確定した。
 現在7回目の申請が行われている。
 アリは5回目の申請中だった08年10月に日本人と結婚している。現在まで通常の婚姻関係が維持されている。しかし、結婚はいっさい考慮されていない。2回目の難民申請不認可の取消しを求める裁判で、入管側は2人の結婚について主張している。
「婚姻期間が長くなれば、いつかは在留特別許可を付与されるかもしれないから、自己に不利益な司法判断は無視して不法残留を継続するという身勝手で無責任な態度の下で、本邦に在留し続けてきている。このような原告の態度は、不法残留による在留期間を引き延ばした上、長期間在留していることをもって在留特別許可を得ようとするものであり、正に違法状態の継続にほかならないのであるから、原告が本邦に長期間在留していることは、在留特別許可の許否の判断において格別有利に斟酌すべき事情にはあたらない」

日本にきたばかりの頃のアリ

 アリが帰国すれば、迫害を受け、殺される可能性がある。しかし、そうした事情はいっさい考慮されず、入管はさらに二人の婚姻関係にも言及している。
「妻がトルコに渡航して原告のところに赴くことは十分に可能であるし、電話、電子メール、インターネット等により原告と交流することは可能であるから、原告と妻が夫婦関係を維持することは可能である。したがって、原告と妻との婚姻関係は、在留特別許可の諾否判断において格別有利に斟酌すべき事情とはいえない」
 ――アリは日本に入国し、不法滞在を続けてきた。日本人と結婚すれば、特別在留許可が得られるだろうと勝手に思い、長期に不法滞在を継続している。妻がトルコに行くことも可能だし、電話やメールで連絡を取ることも可能で、アリがトルコに帰国しても夫婦関係は維持できる。結婚しているからといって特別在留許可は与えられない。
 東京地裁も高裁も、入管側の主張を丸のみにしたような判決を下した。
「日本政府は、トルコ政府とまったく同じに思える。小泉内閣から安倍内閣に代わり、オーバーステイの外国人に対応はいちだんと厳しくなったように感じる」
 難民申請者に対する対応が以前にも増して厳しくなったと、難民申請者の間では囁かれている。
 トルコ政府はクルド人をテロリストとみなして様々な弾圧を加えきた。
 日本に入国したクルド人は2千人といわれている。これまでに難民認定を受けた者は一人もいなかったが、今年7月、トルコ国籍の20代クルド人男性について、入管は難民認定の方向で調整を始めた。男性は難民不認定処分の取り消しを求めて提訴していたが、札幌高裁は一審判決を覆し、不認定処分を取り消す判決を下した。その高裁判決が確定した。しかし余談は許さない。
 21年、入管難民法の改定案が提出された。政府案は「難民申請3回目以降は送還可能」にし、送還の妨害にも罰則規定を設けるものだった。この法案は多方面から反対され、成立には至らなかった。しかし、政府は再度この法案の成立を目指しているといわれている。
 難民申請者にとって日本は今も鉄格子のない牢獄だ。(つづく、月刊『望星』2022年9月号初出)

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