【日本移民の日特集号】独立200周年を祝う「自由の道」企画を発表=国道40号線沿いのツアー開始=2世紀の歴史を振り返る

「自由の道」の旅程(5月2日付エスタード紙電子版)

 4月26日、リオ、ミナス、ゴイアス、連邦直轄区を結ぶ観光企画「自由の道」が発表された。国道40号線に沿って307市を訪ねる1179キロの旅は、9月に迎える独立200周年記念イベントの一つでもある。

リオ市のヴァロンゴ埠頭(Agência Brasil Fotografias, via Wikimedia Commons)

 「自由の道」はリオ市ブラジル大通りから始まり、リオでの帝政時代やミナスでの自由主義運動、ゴイアスでの内部征服、ブラジリア創設に至るまでを辿る。国内12の文化遺産中、リオ市のヴァロンゴ埠頭とブーレ・マルクス農園、ミナス州のオウロ・プレット市セーラ・ド・エスピニャッソ、コンゴーニャス市、ベロ・オリゾンテ市パンプーリャ、カミーニョ・デ・ゴイアス、ブラジリアの7つを含む。訪ねるのは、リオ州49市、ミナス州241市、ゴイアス州16市にブラジリアで、約2千カ所の観光名所が含まれている。
 旅程には大西洋岸森林(マッタ・アトランチカ)、セーラ・ド・マル、セーラ・ダ・マンチケイラ、セラード、セーラ・ド・エスピニャッソといった植生が含まれ、ミナス州立イタコロミ公園やイビチポカ公園、ユネスコ世界遺産のゴイアス州シャパーダ・ドス・ヴェアデイロスなどの自然公園も6つある。
 ミナス州では米州大陸で最も古い、ルジアと命名された人類の頭蓋骨が見つかるなど、考古学者の関心も高い。このツアーでは洞窟巡りができる市も14ある。

帝政時代

サンパウロの街を背景にした23歳のペドロの肖像画(1822年、Simplício Rodrigues de Sá, Public domain, via Wikimedia Commons)

 帝政時代は1822~31年の第一帝政期と31~40年の摂政期、40~89年の第二帝政期からなる。第一帝政期は、「独立か死か」との雄たけびで独立を宣言した「ドン・ペドロ1世」が治めた。
 当時は1815年に「ポルトガル・ブラジルとアルガルヴェ連合王国」の首都となったリオ中心に開発が進み、王室が外国人移住や入植を奨励した事で、1818年にスイス人移民、その後もドイツ人移民、マカオからの中国人労働者らが入植し、移民国の基礎ができた。
 1816年に連合王国の王となったジョアン6世はブラジルをポルトガルと対等の王国とし、領土も広げた。だが、1820年にポルトガルで起きた自由主義革命で帰国。ここで連合王国摂政となったペドロは、ポルトガルによる再植民地化の動きに反発してブラジルに残留、ポルトガル軍の将校らの勧めで独立を宣言。皇帝ペドロ1世となり、「ブラジル帝国」が建国された。
 ブラジルはポルトガル王室のブラガンサ家が帝位に就いたため、スペイン系米州諸国のような分裂状態は避けられたが、逆に、植民地時代の権力構造や大地主による支配が続く原因ともなった。
 独立を最初に認めたのは米国で、1825年にはポルトガル、翌26年には英国の承認も得たが、25年末に起きたシスプラティナ戦争で敗れ、1828年のモンテビデオ条約でシスプラチナ(現ウルグアイ)を失った。
 ウルグアイ独立やシスプラティナ戦争による戦費拡大はペドロの失政とみなされ、ミナス州(当時は県)中心に政府に対する反対が強まった。1831年の内閣改造後は不満が爆発し、暴動も起きたため、4月7日にペドロ1世が退位。当時5歳だった皇子のペドロ2世を後継者に指名して母国に退去した。

ドン・ペドロ2世(Mathew Benjamin Brady, Public domain, via Wikimedia Commons)

 ペドロ2世成人までの政治は上下両院が選んだ摂政3人が担当。共和制を求める反乱頻発で、1831年8月に国民軍(民兵隊)が創設された。国民隊の隊長は各農村のボス(コロネル)が務め、農村のボスによる支配(コロネリズモ)が続く原因となった。
 反乱多発に南大河県の独立宣言、ポルトガルでのペドロ1世の死去などで起きた混乱を収めるため、1840年のクーデターでは超法規措置がとられ、ペドロ皇太子の成人式を実施。「ブラジル皇帝ペドロ2世」となった。
 第二帝政では自由党と保守党の2大政党がペドロ2世の調整権によって政権交代を繰り返した。これを不満とする自由党が1848年に反乱を起こしたが、1850年に鎮圧され、政治的安定が生じた。
 ブラジルがウルグアイの再接収を試みたのを同国への内政干渉と見たパラグアイが宣戦布告し、ブラジル帝国とアルゼンチン、ウルグアイの三国同盟との間でパラグアイ戦争が勃発。戦争は三国同盟の勝利に終わったが、ブラジルでは財政崩壊が起き、共和制思想や奴隷制廃止が宣伝され始めた。また、1850年の奴隷貿易廃止により、1860年代には欧州移民が導入される事になった。
 正式な奴隷制度廃止は1888年5月13日の黄金法制定後で、ペドロ2世は大地主の支持を失った。ただ、開放時も奴隷への土地や財産の分配はなく、黒人の社会的立場は変らなかったため、社会格差が残った。
 
共和制時代

 共和制樹立は1889年11月15日で、デオドロ・ダ・フォンセカ元帥が初代大統領となった。1891年には貴族制度廃止、県から州への変更、正副大統領の直接選挙、三権分立などを定めた憲法を公布。中央集権的帝国国家が地方分権的連邦共和制国家「ブラジル合衆国」となった。
 だが、フロリアノ・ペイショト副大統領を支持する軍の青年将校らのクーデターで大統領が交代。サンパウロ州とミナス州から交互に大統領が出るカフェ・コン・レイテ体制は1902年から始まった。
 当時は外交政策が奏功し、領土を拡大。1909年にはウルグアイとの国境紛争も解決したが、人種主義や貧困に苦しむ人々が起こしたカヌードスの乱(1896年)やコンテスタードの乱(1912年)などが続発し、大地主に対する匪賊(カンガセイロ)も跋扈した。1920年代はカフェ・コン・レイテ体制や政権腐敗への批判が強まり、軍や地方諸州の反乱も起こり始めた。
 この時期は首都リオ市の改造やサンパウロ州のコーヒー産業発展、奴隷制廃止などで、欧州や中東、日本からの移民も始まった。1920~30年に流入した移民は約500万人で、350万人が定着。うち約200万人がサンパウロ州に定住した。これらの諸事情は経済の中心としてのサンパウロ市の地位を不動のものとした。

ヴァルガス時代

 1925年4月に南大河州のルイス・カルロス・プレステス少佐が結成したプレステス部隊は、1929年のボリビア亡命まで、2万4千キロにわたり奥地を転戦。政府軍やコロネルの私兵追撃を53度も退けた。
 同部隊による混乱の最中の1926年にはサンパウロ州のワシントン・ルイスが大統領に就任したが、29年の世界恐慌の中でもサンパウロ州がカフェ・コン・レイテ体制にこだわったため、1930年にミナス州が同体制を離反。同州を含む地方諸州が結成した「自由同盟」は、サンパウロ州のジュリオ・プレステスが当選した30年の大統領選は不正だと批判。同年10月に起きた自由同盟の武装蜂起は軍も支持。11月3日にはジェトゥリオ・ヴァルガスが大統領に就任した。
 大地主を支持基盤に持たないヴァルガスは青年将校(テネンテ)や都市の中間層、労働者を基盤に、サンパウロ州やミナス州の大地主との戦いを始めた。既得権益を奪われるのを恐れたサンパウロ州で起きたのが、1932年7月9日の護憲革命だ。
 ヴァルガスは1934年に新憲法を制定。憲法には州兵指揮権を連邦大統領に移管するなど、中央集権色の強い項目が盛り込まれ、1937年に新憲法体制下での選挙実施の予定だったが、ルイス・カルロス・プレステスらがテネンテや社会主義者、共産主義者らと共に1935年3月に民族解放同盟(ANL)を結成。ANLは直後に解散させられ、プレステスが指揮した各地の反乱も失敗。共産党も翌年解党され、投獄、追放者が出た。
 ヴァルガスは大統領選が行われるはずの1937年にクーデターを起こして国会を解散し、新憲法を制定。こうして生まれたのが「エスタード・ノヴォ(新国家)」だ。
 この時期は教育を介したナショナリズムが称揚。サンパウロ州やリオ州を中心に工業化も進んだ。1939年に起きた第2次世界大戦には欧州の戦場に遠征軍も送ったが、独裁体制批判で1945年10月に軍のクーデターが起き、ヴァルガスは失脚した。
 
ポプリズモ時代

 民主社会党(PSD)のエウリコ・ドゥトラ将軍は民主主義政策をとり、1946年に三権分立と大統領の直接選挙を定めた憲法を制定。1950年12月の直接選挙では、PSDとブラジル労働党(PTB)が擁立した元独裁者のヴァルガスが当選した。
 ヴァルガスは大衆主義的左翼ナショナリズム路線を強め、ペトロブラスやエレトロブラス、鉄鋼企業リオ・ドセ(現Vale)、通信企業エンブラテルなどの国有企業を設立。当時は教育や運輸、ジャーナリズムが発展し、大学もできたが、共産党と結びつく傾向が出始めたりして批判が高まり、軍に見限られたヴァルガスは、1954年に自殺した。
 1955年の選挙で当選したのはPSDとPTBが擁立したジュセリーノ・クビシェッキで、1956年の就任後は外国資本流入を中核とする開発計画を推進。1957年にブラジリア建設を始め、1960年4月12日に遷都を行った。これらの動きは対外債務膨張と財政赤字増大、高インフレを招いた。
 1960年の大統領選で当選した国民民主同盟のジャニオ・クアドロスは、61年に就任するとインフレ抑制のための緊縮財政を採用したが、国民の不満を招き、同年8月に突如辞任。PSDとPTBが立てたジョアン・ゴラール副大統領が大統領に昇格した。
 ゴラールは経済学者のセレソ・フルタードを経済企画相に任じたが、インフレ高進が続き、国際収支の赤字が増大。農地改革などの社会改革も進まず、退陣を求められた。

軍事政権

クーデターを起こしたカステロ・ブランコ(Governo do Brasil, Public domain, via Wikimedia Commons)

 ここで起きたのが1964年3月31日のクーデターで、ゴラールは4月4日にウルグアイに亡命。保守派と組んだカステロ・ブランコ将軍が4月15日に大統領となった。
 新政権も緊縮財政や国営企業の民営化、公務員縮小などを行ったが、国民資本の企業倒産が続き、国民の窮乏化も進んで軍政への反発が強まり、1965年10月の地方選で反軍政派の社会民主党や労働党が圧勝。これを見たカステロ・ブランコが戒厳令を敷き、国会や地方議会の解散、既存政党の解体再編成を行い、国家革新同盟とブラジル民主運動の2党による翼賛体制を樹立。外交的には、南米における親米反共の砦となった。
 1967年に大統領に就任したコスタ・エ・シルヴァ将軍はカステロ・ブランコが用意した憲法を公布。これにより、大統領の戒厳令施行や地方への介入権が認められ、国名も「ブラジル連邦共和国」となった。また、軍事政権に対する学生や労働者の抗議集会が増えて、ストライキや都市ゲリラも発生。野党からの批判も高まり、発令したのが軍政令第5号(AI―5)だ。
 1969年のシルヴァ辞任で成立したエミリオ・メディシ政権は非合法な手段による反体制派弾圧を徹底。都市ゲリラ殲滅による治安回復と強権で保障した低賃金労働は、工業部門をはじめとする高度経済成長を招いたが、貧富の差は拡大。ファヴェーラの拡大や治安の急激な悪化に拍車がかかった。1973年のオイルショックによる先進国からの外資流入停止で、翌年は経済成長が止まった。
 1974年発足のエルネスト・ガイゼル政権は強権統治を修正してAI―5を破棄。経済低迷や国民の貧困化で経済に対する国家統制を強め、外国資本の一部規制を行った。
 1979年に誕生したジョアン・フィゲイレド政権では恩赦法や政党法を制定。政治犯釈放や追放者の帰国が起き、政党結成も自由化された。
 当時のブラジルは軍政下の開発政策でラ米一の工業国になったが、開発モデル挫折でスタグフレーションが発生。1980年には労働運動が復活し、ファヴェーラ住民を弾圧する警察や軍への抵抗運動も起きた。80年代はブラジル経済の「失われた10年」で、軍部の政治的影響力低下や民政移管に繋がった。
 また、軍政下で国家が進めたアマゾン開発は、ガリンペイロと呼ばれる無法者集団の進入や乱開発、アマゾンの砂漠化も招いた。

民主主義復活

早期の大統領直接選挙を求めた「ジレッタス・ジャ!」運動の様子(Senado Federal, via Wikimedia Commons)

 1985年4月、21年ぶりに誕生した文民政権のサルネイ政権は大いに期待されたが、社会改革や経済政策では不十分な成果しか残せなかった。1988年制定の新憲法(現行憲法)には先住民の権利の保護、人種差別禁止、非識字者の選挙権の承認などが盛り込まれたが、政権末期は腐敗政治が恒常化し、経済も混乱した。
 1990年に生まれたフェルナンド・コーロル政権はインフレ対策に失敗。92年のインフレ率は1149%に達した。同氏は汚職などで追及され1992年に罷免直前に辞職したため、副大統領のイタマル・フランコが昇格。フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ経済相が導入したレアル計画はインフレ克服の布石となったが、様々な社会問題は残った。

実質的に民政移管後の初の大統領となったサルネイ氏(Unknown authorUnknown author, via Wikimedia Commons)

 1994年からのカルドーゾ政権はリオ・ドセなどを民営化。金融政策の成功で97年にはインフレをほぼ鎮静化したが、ブラジル経済は99年のアジア通貨危機で再び停滞した。 
 2002年には左派のルーラ政権が誕生。初の女性大統領となったジルマ氏が後を継いだが、2015年に罷免され、テメル政権が発足。2019年からは右派のボルソナロ政権が生まれ、今に至っている。

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