《記者コラム》コロニアのブルドーザー山村さん逝く=気になるパンデミック中の勢い失速

異例中の異例、2連合会の会長兼任

山村敏明さん(2013年3月)

 聖南西文化体育連盟とリベイラ沿岸日系団体連合会の現役会長、山村敏明さんが残念なことに6日に亡くなった。「コロニアのブルドーザー」ともいえる馬力を発揮した人物だと思う。
 2003年、山村さんは地元のレジストロ日伯文化協会第4代会長として、新会館を建設した当たりから目立つ存在になってきた。同地入植90周年を記念した大事業として成功させ、この会館を拠点に日系活動が一気に活発化した。
 地元の活性化をなしとげた勢いで、近隣日系団体に声をかけて、2006年にはヴァーレ・ド・リベイラ日系団体連合会(FENIVAR、山村敏明会長)を発足させた。一団体では限界があるが、近隣でお互いに助け合えばもっと容易に活性化ができるはずとの山村さんのかけ声に賛同した9団体が加わった。
 その勢いで、リベイラ地域と地理的にも歴史的にも関係が深い聖南西とも頻繁に連絡を取り合うようになり、2008年の日本移民百周年では「聖南西・リベイラ合同百周年委員会の委員長」として活躍。それが認められて、09年1月に聖南西の会長も兼任するようになった。
 その4カ月後の5月、聖南西連合会傘下団体の実情視察と積極的な参加を説得するために地方団体を回るから、「一緒に行かないか」と山村さんに誘われ同行した。広報理事の小川彰夫さんらと4人で1台の車に乗り、1日で6団体を回った。
 6団体のうちの4団体は、連合会への参加が久しくなかったところ。つまり同連合会の中心地区であるピニャールからピエダーデの当たりから見て、一番遠い場所にある団体だった。
 朝5時に聖市を出発して1カ所目のピニャールは朝8時から会合、そこからイタペチニンガ、タツイ、アヴァレー、イタポランガ、グアピアラを回った。
 かつて〃テーラ・ダ・フェイジョン〃(フェイジョン豆の大産地)と呼ばれ、コチア産業組合中央会の組合員が競うようにフェイジョンを生産し、活気があったイタポランガでは、現地文協代表から「15年間何もやっていない」と話を聞き愕然とした。
 09年の15年前と言えばコチア組合崩壊。山村さんが帰りの車の中で「15年といえば、一世代まるごとだな」とポツリいうと、小川さんが「コチア崩壊とデカセギのダブルパンチ…。僕らはこういう現実をしっかり見ないといけない」と噛みしめるように言ったのを覚えている。
 1日の総走行距離は約1千キロ。東京―大阪間を往復するにあきたらず、静岡あたりまでさらに戻ったぐらいの計算になる。しかも、大半が高速道路ではない一般道だ。奥地団体巡りを終えて、聖市の自宅に帰り着いたのは深夜2時だった。コラム子のようにただ乗っているだけでクタクタになるのに、運転していた山村さんはどれだけタフかと驚いた。
 このような地道な働きかけの活動があってこそ、連帯感が生じ、連盟は活性化するのだとあの時感じた。連盟役員自らが傘下団体の会館を訪ね、そこで話をすることで掛け値なしの実情が分かるし、誠意が伝わる。
 パラナ州の日系社会長老だった沼田信一さんに生前お伺いしたことによれば、同州の日系団体約70団体を節目の周年事業のごとに全て周り、膝をつき合わせて協力を仰ぎ、募金をお願いした。パラナではそうやって100周年時には54万レアルもの募金を集めた。
 当時、聖州でこのような動きをする日系団体代表は、山村さんだけだったと思う。

2016年、FENIVAR10周年式典で乾杯の音頭をとる山村さん(中央)

コロニアのブルドーザー

 2013年には山村さんが祭典委員長となって、最古の日系植民地「桂」から始まるイグアッペ、レジストロ、セッチ・バーラス地方の日本人開拓移民入植100周年を祝う式典や数々の記念事業を見事に成功させた。
 2016年頃から「サンパウロ州日系地方団体代表者の集い」も始めた。聖南西、リベイラ両地方だけでなく、ノロエステ、アウタ・モジアナ、アチバイアなど聖州各地を訪問して、地方で共通する問題を話し合う場を作った。
 16年5月7日に行われた「第2回同集い」の席で、ボツカツ文協の坂手實(みのる)評議委員長は感極まったように、こう言ったのを覚えている。「父から『ブラジルで生まれたのだから良きブラジル人になれ』と繰り返し言われて育ってきた。今、一般社会の起きていることを思えば、『良きブラジル人』とは『日本文化を残した日系人』といえる時代になった。特質を継承した日系人であることで、よりブラジルに貢献できる時代だと、この会議に参加して強く感じた」
 さらに坂手さんは「『日本移民が来たことでブラジルは良くなった』と100年後の歴史家から言われるような役割を、我々は今果たさなくてはいけない。移住した両親への感謝を、常に頭に置きながら」と感動的な演説をした。
 この集いは、17年に第5回まで行われ、翌18年の移民110周年に眞子様がマリリア、プロミッソン、アラサツーバをご訪問された際、各地方から参集するなどの形で新しい協力体制を見せ始めていた。
 コラム子は山村さんの後ろ姿を見ながらその豪腕ぶりを「コロニアのブルドーザー」と敬愛していた。今年1月の聖南西総会で、もう一期会長を務めると聞き、最後の踏ん張りを期待していた。だが、その山村さんも亡くなってしまった。

最近に気になる出来事

 思えばパンデミックが始まって以来、多くの日系社会の重要人物が亡くなった。「永遠のデプタード(議員)」下本八郎さん、「カオリン王」堀井文夫さん、アマゾナス州マナウスのSBグループ会長・武田興洋さん、パラナ州マリンガーのカメラ業界草分け・植田憲司氏、ブラジルゲートボール連合元会長・本藤利(ほんどう・とおる)さん、ブラジル日本商工会議所第8代会頭などを歴任した後藤隆さん、サンパウロ人文研元顧問、鈴木正威さん、スザノ福博村会会長など歴任した大浦文雄さんなど本当にキリがない。
 そこに山村さんが加わった。前掲したような皆さんは皆、コロニアを動かすエンジンや潤滑油のような働きをしていた。それが一つ一つ停止することで、コミュニティ全体の動きが鈍くなってきたのではないかと心配になる。
 コロニアに関して最近とても気になることが幾つかある。もちろんパンデミックによって、ここ2年間、世の中全てが停まってしまった影響は大きい。それを推して、高知県人会は先週第1回高知祭りを、ブラジル日本文化福祉協会はこの週末に文化祭りを、オザスコ文協も「MOSTRA JAPÃO」を開催するなど、だんだんと活動が戻り始めていることに安堵する気持ちも強い。
 ただし、それ以上に「日系社会の全体的な勢い」のような機運が、パンデミックの間にかなり落ち着いてきてしまっている気もする。

本来は右側のように上塚周平銅像があったが、昨年10月19日には左側のように盗難されて影も形もなくなった

 例えば、昨年10月に盗まれた東洋街の上塚周平銅像がそのままになっていることだ。ブラジル日本移民を開始した水野龍の右腕であり、自らも上塚植民地を建設し、移住者から「ブラジル移民の父」と慕われた恩人であり、先達だ。
 一昔前なら、プロミッソン(かつての上塚植民地)や熊本県人会などが発起人になって再建委員会が作られ、すぐに元通りになった気がする。「立て直そう」と声を出している人がいるとすら聞いていない。もしかして、聞こえてこないだけかもしれない。

文協ビルの落書き

 他にも、日系社会の中心と言われるブラジル日本文化福祉協会(文協)のビル側面と上部に書かれた落書きが、そのままになっていることも気になる。日系社会の中枢たる建物がパンデミック中に落書きされ、そのままになっている。非常に見苦しいのに加え、権威が失われる感じがする。今まではこれほどヒドイ落書きはされて居なかったように思う。

独立200周年は式典だけ?

 トドメと言えるのは、今年9月のブラジル独立200周年を祝うための日系社会の事業が、今のところまったく聞こえてこないことだ。文協などが中心になって記念式典を行う話は出ているようだ。だが今のところ、それでお終いのようだ。
 そもそもブラジル政府があまり盛大な記念事業を進めているという話を聞かない。100周年の時にはコルコバードのキリスト像が建てられるなど、当時としてはかなりの大事業が遂行された。加えて、ブラジル政府は100周年の際には、リオで国際万博を開いた。
 日本政府は当時、この独立100周年式典に初めて海軍練習艦隊3隻(「浅間」「磐手」「出雲」)を派遣した。当時の駐伯公使堀口九萬一を特派大使に任命した。
 練習艦隊3隻は同年9月3日にリオ・デ・ジャネイロ港に入港。独立記念日の7日には「独立記念万国博覧会」の開会式が挙行された。この博覧会には日本も出品した。練習艦隊は観艦式及び晩餐会、舞踏会などの公式行事を連日開催した。
 今回もリオで何か大きな計画がこっそり進めているのかもしれないが、今のところ、あまり話題になっていない。
 最も計画的に200周年記念事業を進めているのは、聖州政府だろう。ペドロ1世が「独立万歳、自由とブラジルの分離独立万歳!」と決起を呼びかけたことで知られるイピランガの丘に立つパウリスタ博物館を完全改装して、今年9月までに再オープンすべく工事を進めている。文句なしにこれが200周年最大のプレゼントだろう。
 1954年、サンパウロ市生誕400年祭の際には、日系社会が総力を挙げて盛り上げに協力し、イビラプエラ公園に日本館を建設した。これほどのものはムリとしても、200周年を記念したモニュメントを遺せないだろうか。
 4年前、ニッケイ新聞2018年9月11日付には《独立200周年記念の記念モニュメント建設を》というコラムが掲載された。そこには、イタリア系コロニアが独立100周年を記念してアニャンガバウー広場に建設した「栄光―希望の泉」のモニュメントのことや、シリオ・リバネース・コロニアも100周年を記念して「シリオ・リバネース友情モニュメント(Monumento Amizade Sírio Libanesa)」を3月25日街の始りにある広場(Praça Ragueb Choh)に建設したことが説明されている。

独立100周年の1918年、イタリア系コロニアが寄贈した「栄光―希望の泉」のモニュメント

 その締めくくりには、《日系社会が力を合わせ、ブラジル独立200周年を記念した素晴らしいモニュメントを、リベルダーデ広場にプレゼントしてはどうか? 字を刻んだ記念碑ではなく、鳥居に匹敵するようなインパクトのある新観光名所、芸術的なモニュメントだ》と書いたが、ほとんど反応はなかった。
 200周年まであと半年に迫っている。今からモニュメント建設は難しいかもしれない。企画立案、市役所への建築許諾申請、資金集め、芸術家に制作依頼、据え付け工事など、やることは山ほどあるからだ。
 とはいえ、来年6月には日本移民115周年、6年後には120周年になる。今年は、ポストパンデミック(コロナ後)の動きを占う重要な試金石になりそうだ。
 日本語新聞に残された大切な役割の一つは「コロニアを記録する」ことだと思う。日本移民史に大切な役割を果たした人たちの記録を日本語で残しながら、良くも悪くも日系社会の正確な歴史を書き残していきたい。(深)

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