連載小説=おてもやんからブエノスアイレスのマリア様=相川知子=第12回

ブエノスアイレス州フニン市のカフェ東京。オルケスタデセニョリータは写真奥の上に見える(アルゼンチン日本人移民史第一巻戦前編 127ページ、FANA発行、在アルゼンチン日本人会資料)
ブエノスアイレス州フニン市のカフェ東京。オルケスタデセニョリータは写真奥の上に見える(アルゼンチン日本人移民史第一巻戦前編 127ページ、FANA発行、在アルゼンチン日本人会資料)

12.日本人の評判

3 マリア・エバ 

 マリア・エバ(編集部注)という女の子がいた。ブエノスアイレス州の北の方の日本人のカフェで働いていたとも、手伝っていたとも言われている。当時日本人のウエイターだけではなく、日本人経営のカフェはブエノスアイレス州の至るところにあったし、北部のトゥクマンやサルタにもあってとても繁盛していたそうだ。
 女の子は最初、窓からガラスに手をつけて中をのぞいていた。あまり身なりのよくない子どもがいたら、じゃけんにして追い払うよね普通は。お客さんはお金を払ってコーヒーを飲みながら音楽を聞く。カフェに行くのはしっかりとしたスーツにネクタイに上等の革靴という、比較的身なりがいい人達であった。
 つまり、その当時カフェは喫茶店というよりも社交場であり、コンサートホールのようでもあった。
 マリア・エバはブエノスアイレス州フニン近くのロストルドスの牧場主の子どもではあったが、父親には100キロ先のチビルコイに住む正妻がいたんだ。5人きょうだいの末っ子。父親は同じだから、愛人というよりはむしろ、牧場での妻で、当時はよくあることだった。
 カフェを見に行っていた時期は父親が亡くなって生活に苦労していたらしい。お葬式にも家族として参列させてもらえなかったのはかわいそうな話だよ。しかし、日本人の給仕や下働きの人達は、窓からこっそり見ていた子を見て見ぬふりをしてほっておいたり、たまにはカフェ(コーヒー)も、もちろん子どもだからレチェたっぷりで飲ませたこともあったようだ。
 そうしていたら、お世話になっているからとお母さんからビアンダ、お弁当を受け取った人もいたってね。そのうち少し大きくなってから、オルケスタデセニョリータに入っていたとか、人によっては蓄音機を回す係だったとか言われている。
 あの当時、カフェには上にパルコと呼ばれるバルコニーのような高い場所があり、そこで演奏などをしていた。下にカフェを飲む客がいるし、外からも時には上が見えるから、客寄せにかわいい女の子がいた方が店にも都合がよかった。
 本人も芸能が好きだったんだろうね。その女の子の愛称はエビータ。後にラジオ女優になり、ましてや大統領夫人になるとは、誰もつゆ知らずに。なお、本人の自叙伝にはこんなことは書かれていない。
 そんな風に日本人には気のやさしい、元来親切な人が多かったから、アルゼンチンの人に自然に好かれたんだろうね。ペロンとエビータ夫妻に洗礼後見人になってもらった日本人もいたんだよ。
 票集めのためということも言われているけれども、家族のほとんどいない移住者の私たちにキリスト教者になってほしいからとはいえ、親になにかあったら面倒を見るという約束の代理父、代理母になってくれたのは大したことだった。記念のメダルをもらったそうだ、どこかのうちにきっとあるよ。
 勤勉で地道な行動から、日本人はだんだん尊敬されていくようになった。ありがたいことだった。
(編集部注=マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン、1919年5月7日―1952年7月26日)はアルゼンチンの人気女優にして政治家。私生児として生まれながらフアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなり、政治にも口出しするようになった。現在でもアルゼンチン国内では人気が高く、親しみをこめて「エビータ」(Evita)と呼ばれる。
 エバ・ペロンの生涯はミュージカル『エビータ』で描かれ、70年代に英ロンドン、米ブロードウェイでもロングランを記録。それを基にした映画『エビータ』(1996年、アラン・パーカー監督)が作られ、主演のマドンナが歌う『アルゼンチンよ泣かないで』と共に世界的に話題になった)
※注=「レチェ」(leche)牛乳、ミルクのこと/「ビアンダ」(vianda)弁当というと日本式のものを想像してしまうが、アルゼンチン式の持ち運び軽食サンドイッチや菓子パンなどを容器に詰めたもの/オルケストラデセニョリータ」(orquesta de señoritas)若い娘達編成小オーケストラ。基本的に複数形はスペイン語が日本語化するとき欠落。客寄せのため音楽の質は問わなかったらしい/「パルコ」(palco)バルコニー

 

 

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