特別寄稿=相川知子さんと「ニッケイ新聞」と私=小説家 水村美苗

水村美苗さん(@toyotahoriguchi 堀口豊太氏撮影)

  私は日本に住み日本語で書く日本人の小説家である。
 アルゼンチンの出版社アドリアナ・イダルゴが、ありがたいことだが、今までに二冊私の小説のスペイン語訳を出してくれた。相川知子さんはその二冊目、『母の遺産―新聞小説』の翻訳者であり、ことあるごとにそのスペイン語訳「La herencia de la Madre」を精力的に宣伝して下さっている。海の向こうでの私の本の宣伝係でもある。ご自身がアルゼンチンに渡ってから30年近いというその相川さんが、このたび、90年前にアルゼンチンに渡った一人の女の人の聞き語りを文章にされた。異国で老いていった日本女性の生の声が聞こえ、当時の状況が目の前に立ち上がる素朴な素晴らしい文章である。また、日本では忘れられがちな日本人の歴史の大切な資料でもある。そのような文章が、あわや廃刊の憂き目にあいそうになった「ニッケイ新聞」(編集部注=21年12月18日廃刊)を救って引き継ぐ「ブラジル日報」(編集部注=22年1月4日創刊)という日本語の新しい新聞に掲載されることになった。
 私にとってもなんだか嬉しい話である。
 実は私は12歳のときに父親の仕事の関係で家族ごとニューヨークに移ったという過去をもつ。32歳のときに日本に戻ってきた。20年間「駐在員の娘」という意識で過ごしていたが、自分でも知らないあいだに私自身変化を遂げていたものと思える。アメリカ滞在も最後になったころ、日本から来た人に、「水村さんて、悪いけど、ちょっと、ブラジルに行った日系人みたい」と言われた。「悪いけど」という表現が狭量な日本社会の偏見のすべてを語っているようだった。それと同時に、はっと思った。真実に直面したときの衝撃があった。たしかに私は日系人のほうに心情的に近くなっていた。私が日本を恋う心はふつうの日本人が「日本食、食べたいなあ」などというのとは質がちがい、魂全体であこがれるようなものであった。飛行機代が安くなった今の駐在員の子どもとちがって、私がアメリカに渡ったころ日本はとてつもなく遠く、日本に戻る日を夢見て思春期をずっと過ごしたせいにちがいなかった。
 今連載を始めた小説(編集部注:月刊新潮『大使とその妻』)は後半でブラジルに舞台が移り、日系ブラジル人たちが登場する。日本を思っていた私自身の気持を日系ブラジル人を通してさらに深いものにして語ろうと考えてのことである。リアリズムの小説というよりも、幻想的な小説で、実際にはありえない世界が日本でもブラジルでも展開される。語り手はブラジルに足を踏み入れたことがない人物として設定されているが、著者の私自身がブラジルを一度も訪れていないのはいくら幻想的な小説だといっても良くないのではないか。そう考え、2020年の夏はしばらくサンパウロに滞在するつもりであった。そこへコロナウィルスが蔓延するという事態になった。
 そんななかで私にとってのもっとも貴重な情報源は「ニッケイ新聞」であった。数年前の記事でもどんどんと奥に入って読めるのがいかにありがたかったか。廃刊になるというニュースがいかに悲しかったか。それが奇跡的に「ブラジル日報」として生まれ変わるのを知ってどんなに嬉しかったか。「ニッケイ新聞」の最終刊で編集長の深沢正雪氏が、救世主が突然現れたことを、「『移民の生活体験を書き残すという邦字紙の使命を、もっとしっかり全うせよ』とむちうたれた」ようだと書かれていたのに心を打たれたのは、私だけではないであろう。私が書こうとしているのは小説だから所詮「絵空事」である。だがそのような「絵空事」を書くための想像力を可能にしてくれるのは、実際に生きた人たちの記憶が文字になって残っていてのことである。
 相川知子さんにも「ニッケイ新聞」にも感謝する。そして「ブラジル日報」が永らく栄えることを海の向こうから祈っている。

 

追伸

 このレベルの新聞はそうはないのではないかと思いました。編集のかたがたの努力がそのまま伝わってきます。「国際派日本人養成講座」もたいへん面白く拝読しました。いくつかの記事にはルビがついているのがとても親切です。私自身12歳でアメリカに行ってから、ルビつきの日本語を読むことによって日本語を学ぶことができました。


筆者略歴
 1951年東京出身。
 父親の仕事の関係で12歳で渡米。イェール大学でフランス文学博士課程を修了した。プリンストン大学で教鞭を執る傍ら日本語で小説を書き始める。
 1990年、夏目漱石の未完作品『明暗』の続きを描いた『續明暗』で文化庁芸術選奨新人賞を受賞。その後、『私小説 from left to right』で野間文芸新人賞、『本格小説』で読売文学賞、『日本語が亡びるとき』で小林秀雄賞、『新聞小説 母の遺産』で大佛次郎賞を受賞した。
 月刊新潮にて『大使とその妻』を連載中。新潮社サイト(https://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/taishitosonotsuma/)で第一回が無料公開されている。

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